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メモ 2015/07/31 反成長

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ----
先日のことだが、新潮という雑誌に、水木しげるが出征前に書いた手記というものが掲載されていたので読んでみた。戦争というほぼ逃れ得ない死を前にして、哲学や宗教に心の安住を求めようとし、しかし戦争という圧倒的なリアルを前に全てが力不足…という雰囲気が伝わるものだった。
個人的には、これが20歳に満たない青年の書いたものだということが衝撃的であった。自分がそんな歳だった時のことを思い出すと、はっきり言って白痴に等しい。片親しかいない子供が「しっかりしてる」と評されることが多いのと同様に、社会のリアルと強制的に向き合わざるを得ない状況は、人の精神的な成長を促すのであろう。
ところで、あえて今「精神的な成長」という言葉を使ったが、実はぼくは成長という言葉が嫌いである。人間の身体的な発達という意味での成長や、数字に裏打ちされた成長 - 例えば経済的な成長 - という意味でなら良いが、「精神的な」成長という意味合いが嫌いなのだ。
何故なら「精神的な成長」という言葉には、人間の精神に「目指すべき高み」があり、そこに近づいているというニュアンスが含まれている気がする。精神的な変化とは、つまり価値観の変容ということに他ならない。したがって、「精神的な成長」というフレーズは、人間の価値観に高低があるという前提を感じるのだ。
より高みに位置する価値観とはなんだろうか?社会に順応していることだろうか?度量が広いことだろうか?現実を受け入れることだろうか?品を身につけることだろうか?謙虚な人間であることか?
挨拶一つできない人間は、精神的に未熟なのだろうか?例えばそれが圧倒的な才能を持つ芸術家だったときたら? 狭量で、他人のミスを許せず、徹底的に糾弾するような人間はどうだ?例えばそれが、世界を変えるような発明を生み出す企業のCEOだったら?いい歳して、現実離れした空想ばかりしている人間はどうだ?そんな人間が、もしかすると世界的に大ヒットするファンタジー小説を書くのかもしれないではないか。下品な人間はどうだ?世界的に有名なある音楽家は、スカトロネタが好きだったことでも有名らしいが。傲慢な人間はどうだ?歴史に名を残した人物は、もしかすると傲慢な人の方が多いのではないか?
だからぼくは、精神に価値の高低があるとは…

メモ 2015/07/23 道徳

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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道徳を自分なりに定義すると、「善悪を測る価値観」である。そして、もちろん善悪の判断は個人の行動を縛る物であり、自由という観点から見れば一つの抑圧である。
価値観、または価値ということについては、以前に何度か述べている通り、人間が創造した、人間の認識にしか存在しない、相対的な概念である。
つまりぼくは、道徳とは極めて相対的なものだと考える。時代、国、地域、家庭などにより、道徳の基準は様々だろう。人を殺してはいけない、という基本的な道徳的価値観ですら、戦場に場所を移すだけで、全く通用しないのだ。
「道徳が実在しない」と結論付けたあとは、個人的に、モラルを保つのに苦労した。自分の中に芽生える良心の声が、なんら客観的な根拠を持たない、単なる幻聴に過ぎないとしか思えなくなってしまったのだ。そして、道徳の枷を外したならば、そこには確かに広大な自由が広がっていた。ニーチェが目指した自由はまさにこれであろう。
ただ、その自由を謳歌するためには、社会との軋轢が避けられない。モラルは幻想だと独りごちてみても、明文化された法や暗黙の了解という形で、社会の構成員を縛る枷として強力に機能しているのは間違いない。既成概念としての道徳に挑戦し、戦いを余儀なくされてしまった人々の例には事欠かない。古くはニーチェがそうだし、最近でもぱっと思いつくのは、「猥褻」という定義に挑戦しているろくでなし子さん、「人生一度、不倫をしましょう」という強烈なコピーで不倫を商用化したアシュレイ・マディソンが、深刻なハッキング被害にあったり、といった具合だ。
ともあれ、「なんらかの真理が後ろ盾になっているはず」と盲目的に受け入れていた道徳という価値観は、実は「特定の共同体における特定の時点での共同了解」にしかその根源を見出せず、自分の中では受け入れがたいものとなってしまった。社会に自分を順応させるために仕方なく従うべきもので、自由に枷をはめる物としか感じられなくなってしまったのである。
こうした状態は、本当に最近まで続いていたのだけれど、あるとき自分の中で急に道徳との折り合いが付く瞬間があった。確かに、道徳とは客観的に実在するものではあり得ない。実在はないが存在はある、という観点に立ったとしても、依然として個人の自由…

メモ 2015/07/13 価値

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。----
また、価値ということについて書く。
ぼくは30を過ぎてからの数年で、何度も何度も価値観の転換を強いられ、しまいには「価値」というものの存在をすら疑うようになった。というか、以前「私的存在論」というメモに記したように、「価値」という概念は人間の心の中にしか存在しない(そしてそれがつまり「存在する」ということでもある)と考えている。
価値とは極めて人間的で、相対的な概念だ。ある人にとって高い価値を持つものが、ある人にとってはなんの価値も持たなかったりする。「マニアにとっては非常に価値が高い」とされるものは、マニアでない人にとってはなんの価値もなかったり、ISが破壊する歴史的建造物は、多くの人々がその価値を高く見積もる中、ISにとってはなんの価値もなかったりする。
価値は人間(の心)が作り出すものである、と考えると、世の中の色んな事象に説明がつく。例えばマーケティングという活動は、「消費者に対し、自社製品の(経済的)価値を訴求していく」行為だと言って差し支えないと思うが、ここで言う「価値を訴求」というのは、具体的にどういうことなのか。価値は人間の心が生み出す存在であり、人によって価値の受け止め方が異なるとしたら。「市場を生み出す」という行為は「価値がある、と感じるよう人の心に働きかける」ということになる。要は教化だとか洗脳だとか、そういう類の行為だ(そして、別にそれを悪いとは思わない)。「市場を開拓する」とは、「価値を感じる人の数を増やす」ということになろう。「競合に勝つ」というのは「他の製品よりも価値があると感じさせる」ことであり、そもそも市場とは、「似たような価値を提供する製品群とその顧客」、市場規模とは「顧客が感じる価値の総和を貨幣価値に換算したもの」、相場とは「価値を貨幣価値に換算する際、顧客が納得する係数」などと言い表せるだろう。
「怪しいツボ」に大金を払った人が特異に見えるのは、その事物の「世間一般で妥当と考えられる経済的価値」とはかけ離れた金額を支払ってしまっている上、本人がそれをおかしいと思っていないように見えるからだ。ただ本人にとっては、それがどんな理由であれ、払った金額に見合う価値を有していると感じられているかもしれないのだ。
ぼくの知っている人物は、「安全こそ…

メモ 2015/07/11 関心

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。  ----
関心という概念に、強い関心がある。
コミュニティ運営やメディア運営、イベント開催をよくやっていたからだ。人々の関心がどこにあるのか、というところをいつも気にしている。
それは、自分にもあてはまる。自分の関心はどこにあるのか。ニュースアプリを使っている時でも、自分はどれを読み、どれを読まないのかを気にしている。たまに、自分の「関心のなさ」 に抗って、スルーしようとした見出しをタップすることもある。そしてその内容に関心が新たに芽生えることもあれば、芽生えないこともある。やっぱ興味わかない、といって閉じてしまうことも多々ある。
関心は、確かハイデガーの「存在と時間」においても中心的な概念だったはずだ。ぼくが読んだ翻訳では確か「気遣い」と訳されていた気がするが。ただ、「存在と時間」は途中で投げ出してしまっていて、全くわかっていない状態なので、とりあえず「哲学や存在論においても関心という概念が重視されてる」というだけの前提で、適当に思うところを書いてみる。
人が自分以外の存在を認識するためには、まず関心を向けることが必要である。関心のないものは、人間にとって(ほとんど)存在しないも同じである。
関心を向けるには、対象物が言語化されている必要がある。言語化とはつまりカテゴリー化だ。他の事物と区別し、文節することが言語の持つ重要な役割である。 関心を向け始めた最初の頃は、非常に荒いカテゴリーしか認識できないが、関心を向け続けて知識を深めていくと、そのうち細かいカテゴリーの存在を認識し、理解するようになる。そのうち、まだカテゴライズされていない概念を発見し、自分が名付け親になることもあるかもしれない。これが学問するということだ。
例えばぼくは最近、自動車に少し興味が湧き始めた。最初はクルマを見ても「クルマだ」としか思わなかったが、興味が高まるに連れて、まずは自動車のメーカーが気になりだした。エンブレムからメーカーの名前を思い出すという作業が楽しくなってきているところだ。このまま関心を高め続ければ、車種や部品などにも詳しくなっていくかもしれない。こうして、関心を持ち続けることで、細かいカテゴリーの知識を獲得していく。
以上、結論なし。

メモ 2015/07/10 価値観

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ----
「価値観を人に押し付けない」
ただこの一言を実践せんがために、もう何年、価値ということについて考えているのだろうか。
「自分の価値観は絶対ではない」と気づいたのは確か4,5年前になる。30過ぎてようやく気づいたという、自慢にもならないどころか恥ずかしい話である。
その頃世間はソーシャルゲームがブーム。ただぼくはそんな狂騒が嫌いで、自分がそれを嫌いであることを公言して憚らなかった。 そんな折、とても好感の持てる若者に出会い、何かにつけておせっかいを焼いていた。その彼と食事に行ったときに初めて聞いたのが、彼は「ソーシャルゲームを心から好きである」ということだった。当時のぼくにとっては、「そんな人がいるのか」と驚くと同時に、自分が好感を持っている人間の口から、自分の当時の価値観と全く真逆の言葉が出たことに衝撃を受けた。さらに彼の言葉を聞くと、本当に、純粋にソーシャルゲームを好きであることが伝わってきて、その言葉を聞いているうちに、大してやったこともないくせにソーシャルゲームを嫌いだとか批判している自分こそ、矮小な人間であると気づいたのだった。
それ以来、自分の価値観というものに常に疑問を抱き続け、少なくとも人にそれを押し付けないよう、常日頃から心がけているつもりだ。しかし社会生活を営む上で、どうしても自分の価値観を人に伝えなくてはならなかったり、軽口でつい出てしまう…といったことも、よくある。そうして自分の価値観を人に晒してしまったあとは常に、自分の価値観の押し付けをしてしまったのではないか、とんでもない間違いを犯したのではないかといつも不安や後悔に駆られる。だが、自分の価値観を人に晒すという行為をゼロにすることはおそらく不可能で、そういう時はしょうがなく、控えめに、「個人的には」という枕詞を必ず欠かさぬようにしながら、自分の考えを開示するほかない。
そもそも価値という概念が極めて人間的で、相対的なものだから、自分の中に一方的なものの見方が発生しているとすれば、必ずそれは不完全で、必ず反対できる余地を含んでおり、必ず誤っているのだ。価値観を人に押し付けることへの恐怖感は、そうした誤りを人に伝えてしまうことへの恐怖だったり、自分と違う価値観を持つ人々を傷つけてしまわないか、不快な思いを…

メモ 2015/07/08 告白

このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
恥ずかしい告白をすると、最近綴っているような抽象的な思索を今より活発に行っていた頃や、哲学の本をよく読んでいた頃、自分が高尚で価値の高いことをしている気になっていた。他人が得ていない多くの気付きを得ている気がして、自分がなんかすごい知識人になろうとしているような気がしてた。

今では、そんなふうに勘違いしていた自分が恥ずかしい。穴があったら入りたい。
自分がその時分に何かを考え、そこから何かを得ていたのだとすれば、同じ時分に同じように他の人々は何かを考え何かを得ていたわけで、そこに価値の高低などない。
例えばある人はゲームの攻略法を必死に考えていたかも知れないし、競馬の予想をしていたかもしれないし、女性を口説く方法を考えていたかもしれないし、ホモの妄想をしていたかも知れないし、お気に入りの嬢がいつ出勤するのかを頻繁にチェックしていたかもしれないし、ゲスい見出しを必死に考えていたかもしれない。これらに費やしていた時間と、ぼくが哲学とか思想にかぶれていた時間の間に、価値の高低などない。いやむしろ、自分が思い上がっていたことを反省する気持ちもあり、この世で最もくだらない時間だったとさえ思っている。
で、この先に述べるはずの結論は、すでに書いてしまった。読者不在の意識が、文章をいい加減にさせる。すなわち、人の考えることに価値の高低などないという話だ。職業に貴賎なしとか、天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずとか、似たようなことを表すフレーズは他にもあるが、まあそんなようなことを、思想や表現にも広げて考えている感じだ。 そして「価値の高低などない」と述べた返す刀でいきなり矛盾したことを言うと、自分の考えや活動が価値の高いなどと思い上がっている人間の考えこそが、最も価値が低いと思っている。下手の考え休むに似たりである。
で、ぼくはなぜいまだにこんなことをグダグダ考えているのかというと、ただただこのくだらない思索活動が好きだからとしか言いようがない。下手の横好きである。人間、いくらくだらなかろうと、好きなことをやっているのが一番よね。

メモ 2015/07/07 私的存在論

読者不在で自己満足の塊のような備忘録を書く。ここはぼくにとってそういう場所だ。
一時期哲学に凝っていた頃に、ハイデガーの「存在と時間」の序文を読んで以来、ぼくは「存在とは何か」という問いに関心を抱くようになった。とはいえ、「存在と時間」はあまりに難解で、また、いくつか重要な示唆はあるもののぼくが関心を抱いているポイントとはいささかズレているようにも思えたので、途中で投げ出したままだ。
それ以来、たまに存在への問いを思い出しては少し考え、そして忘れ、また思い出し…ということを繰り返してきた。そろそろ、一度まとめてもいい時期だ。
ない いつだったか、それまで存在を疑いもしなかった様々なものが、実は「ない」ことに気付いたとき、大きな衝撃を受けたのを覚えている。 今となっては、なぜそれまでその存在を確かなものと考えていたのか、さっぱり思い出せないほどだ。 例えば紙幣の価値。紙幣など、北斗の拳で「今じゃケツを拭く紙にもなりゃしない」と揶揄されているがごとく、ただの紙でしかないと頭では理解しながらも、そこに確固たる価値など存在しないと、真から思えたのは前述の「気付き」からであった。
他にも例えば国境。例えば人権。例えば道徳。例えば正義。枚挙に限りがないが、これらの存在が確固たるものとして感じられていた時分が確かにあり、そしてその時期は過ぎてしまった。あると思っていた多くのものが、実はなかった。色即是空。
この気付き以降、ご想像のとおりぼくは相対主義的になり、少しニヒリスティックに、少し享楽的に、少しアナーキーに、少しインモラルになった。
ある ただ、少しだけ話には続きがある。存在に対して、一番最近のぼくの気付きは、前述の様々なもの、例えば人権だの道徳だの、がやはり「ある」ということだ。
ただ、「ある」の意味が以前とは少し違う。人権だの道徳だの国境だの正義だの価値だの意味だの、こういうものは、今の時代では大多数の人々が「ある」と考えている。こうした人々の、「存在を信ずる気持ち」こそが、前述の概念にとっての存在の根拠となっている。
もちろん、人々の「(存在への)信仰」だけが拠り所なので、その存在は非常に頼りない。地球規模の戦争が起こって、人々の価値観がリセットされてしまえば、すべてその根拠を失うようなものばかりだ。だが、それでいいのだ。そんな揺蕩うような存在のあり方を人々はともかく受け入れ、「ある」とい…

メモ 2015/07/07 世代

昨日、祖母が亡くなった。今日は急遽富山に飛ぶことになった。
ぼくは年を取る。同じように、他の人も年を取る。亡くなる人も出てくる。ぼくが日々何かを学ぶように、他の人も学んでいる。ぼくが日々何かを忘れるように、他の人も忘れていく。ぼくが変わるように、他の人も変わる。ぼくはなに一つ特別ではなく、同じ時代の人々と同じように生きている。皆、いずれ死ぬ。
最近、こうした「同時代に生きてる」大多数の人々に、妙なシンパシーを感じることがある。 別に、人類皆兄弟とか皆平等とか、宇宙船地球号とか、そんな博愛主義に目覚めた訳ではない。ただただ、自分がなに一つ特別なところなどなく、同じ時代に生きる「その他大勢」でしかないこと、それでいいと受け入れられるようになったこと、そして実は誰もが「その他大勢」なのだということを思うようになり、大統領だろうとホームレスだろうと、誰もが同じ時代をやっとこ生きてるに過ぎない、という当たり前の気づきが、妙な仲間意識をたまに呼び起こしているに過ぎぬ。「みな自分と同じく、なんとかかんとか生きているのだ」という思いが、会ったこともない人にすら妙な親しみを感じさせているのだ。
昔ならこんな感覚は、頭のおかしな博愛主義か、イっちゃったリベラリズムとでも捉えていたかもしれぬ。そうではない。自分の中では、単に、他者を捉える新たな見方を身につけたというだけのことである。別にこの見方が自分の中で支配的になるでもなく、単に一つ見方を増やしただけ。このように、引き出しがすこしずつ増えていくのは、年を取ることの妙味だと感じる。悪くない。

メモ 2015/07/06 自由について

一つ前の記事で宣言したとおり、読者不在でつまらない、めちゃくちゃな文章を書くのが、このブログの目的である。
手始めに何を書こうか。
ここ数年、ずっとぼくの心を捉えているテーマに「自由」がある。ぼくが人生をかけて挑んでいるのは、自由を獲得するため、そして自由に創作活動をするためだということがわかってきたからだ。
で、ここ最近の政治の話題を見るにつけ、自由の意味に思いを馳せずにはいられない。 思うところは数多くあるが、まずは自民党の若手議員や百田尚樹さんが出席したという勉強会で、「マスコミを懲らしめろ」だとか「沖縄の新聞を潰せ」だとかの発言が出たことに対して。
ぼくは、事の是非にはあまり興味がない。もちろん、自由大好きな身からすると看過できない発言なのだが、それが「正しい」か「正しくない」かを論じるつもりはないし、そんな知識もないし立場でもないし、他人を断罪するということに興味もない。人は人だ。
ただ、このことが世の中に投げかけた問いは非常に興味深いものだったと思う。すなわち、「他人の自由を侵害する発言を行う自由はあるか」というとのだ。 渦中の彼らの発言は、「マスコミ」に対する(報道、言論の)自由を侵害するものだったと言っても良かろう。こうした発言を行うことを、言論の自由は保証するのだろうか?
まあ、こんな問題は今に始まった事ではない。どこで読んだか忘れたが、「民主主義を否定するような言論を、民主主義は許容すべきか」という議論は古くからあるそうだし、今回の件もまさにそれと同カテゴリー、変奏ですらない。先行する研究も数多くあることだろう。
それと知りつつ、そして自分の無知を知りつつ、思うところを書いてみる。個人的には、「どんな言論、表現であっても、まずは自由が保証されるべきだ」と考える。それが民主主義を否定するものであっても、他者の人権を踏みにじるようなものであっても、虚偽であっても、極めて偏向していようともだ。
そうした言論、表現に対して評価を行うのは、その時代の人間たちによる、これまた言論(報道)といった手段であるべきで、そこに権力の介入、例えば法律などは必要ない。他者の自由を著しく毀損するような言論、表現には、相応のリスクを伴う。時に社会全体から総叩きにあうようなこともあるだろう。他者の自由を軽んじたことへの制裁は、そうした形で与えられる。
自由を侵害するような言論に対して、「そうした…

メモ 2015/07/06 再始動

ずっと途絶えてたこのブログ、再開しようかと思う。
以前は、日々のよしなしごとを書き留めることで、流れるように過ぎていってしまう日々を少しでも記憶に留めたいと思い、書き続けていた。そのため、その内容は赤裸々で、ほぼ裸のぼくのさらけ出しており、それはそれで良いとは思うものの、大きな成長を目指す起業家となった今となっては、内容に問題があったと言わざるを得ない。だから、一旦全部消した。
ただ、日々の考えを表に出す場が全くないというのは、それはそれで「溜まる」ものがある。また、言葉は日々使っていないと、いざという時に出てこない。普段の生活を行っている中で、使わないようなボキャブラリーは特にそうだ。
だから今度は、内容を赤裸々にしすぎることなく、人に話すようなことでもない考えを書き留めておく場として、ここを使おうと思う。つまり、いつ誰に読まれても構わないような無難な内容で、しかも内省的な、「つまらない」内容を書いていこうということだ。 これでも執筆を職業にしていた時期もあるし、文章表現にはある程度こだわりがあるつもりだが、ここでは読者不在を心がけて、前後関係も、合理性も気にせず、めちゃくちゃを書いていこうと思う。