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メモ 2015/09/17 帰属

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 帰属意識というものが、決定的に欠けている。
昔から、どの組織に所属しようと、自分と組織を同一視したりしたことがない。人が作った会社とかはもちろんのこと、自分が作った組織やコミュニティ、果ては家族に至るまで。
だから、「うち(の会社、コミュニティ)」と言った言い回しをほとんどした事がない。名刺交換をするときとかも、会社名を名乗る事もない。
どうしてこうなったのか、なんて理由はどうでもいい。問題は、ぼくが抱いているこの感覚が人に与える影響や、人との感覚のズレだ。
html5jというコミュニティを主宰していた事がある。でも、ぼくにとっては「今この瞬間、自分が主宰している」という事実があるのみで、コミュニティにとって自分が必要不可欠、と思った事は1度もなかった。
家族もそうである。たとえぼくが死んでも、残された人々の人生は続く。会社だってそうだ。ぼくがいなきゃ、潰れるかもしれないが、そこにいた人々の人生は普通に続いていく。読書会を主宰しているが、ぼくがいなきゃ続かないだろうが、別に読書会がなくなっても、世の中の大勢に影響はない。
ここに書いた事は別に、悲観的なつもりもない。ただそれが事実だと思うのだ。人々の集まり、これをコミュニティと呼ぼう、コミュニティというものを一つの生き物のように考えて、組織の死を嘆き悲しむ、そういう感覚がぼくにはないようだ。そういえばぼくは、人類というコミュニティが滅びてしまったとしても別に構わないと思ってる。うーん、こんな風に書くと、破滅主義者と誤解されそうだが、そうじゃない。死があるから、生が輝くと思うのだ。個人にせよ、コミュニティにせよ。死ぬその瞬間まで、精一杯生きれば、それでいいだろう?(この意見は、岡本太郎に相当影響を受けているな)
いつの間にか、帰属意識の話から、死の話になってしまった。
ただ、帰属意識はないけど、愛着はそれなりにある。家族、会社、地域、祖国。それらの死を恐れない訳でもないし、死を嘆かない訳でもない。コミュニティに入ったら、それの盛り上げには人一倍尽力する自信もある。ただ、自分がそこに必要不可欠とは思わないし、だからこそ抜けることにあまり恐れもない。それが責任感の欠如に繋がってもいるだろうし、一方で、「このコミュニティは永遠に不滅だ」と…

メモ 2015/09/14 残滓

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 私は考える。考えた先に、何かを期待しているわけでもなく。考えているこの時間に、何かの価値を見出しているわけでもなく。
ではなぜ考える?最近思うのは、考えを止めるために考えているのだ。
何の業を背負ってしまったのか、世の中の何事につけても、何事かを思い、価値を測らざるを得ぬ。
エンブレム騒動に関してはくだらないと、原発については反対だと、安保法制についてはけしからんと、安保反対デモについてはまあ頑張れと、自分の周りの由無し事についてあれが正しい、これが間違いだと。
それらが全て他人や本からの受け売りだったり、単なる好き嫌いだったり、無知ゆえの突拍子もない類推だったり、バイアスだったり、思い込みだったり、と分かってはいる。それらのノイズ、つまりは自分の思考そのものがノイズなわけだが、それらを全部廃して、世界をありのままに眺めたいと思うのに、なかなかそうもいかぬ。自動化された心の働きが勝手に働いて、何事かを思わされてしまう。
しょうがないので、更に、その自分を否認する。「お前はそう考えているかもしれないが、それはお前の無知や思い込みの賜物だ」と。時には、自分の好みに反する意見を支持してみたりもする。 そうして、頭がごちゃごちゃとして思考がはっきりと形を成さなくなったところで、思考は終了する。こうしたエポケーのあとに残るのは、何も語れなくなっている自分と、主観の残滓だ。
こんなことを繰り返して、その先に何があるのだろう。無色透明な自分だろうか。それは、何にも無関心ということか。自分の力の及ばぬところには価値判断を伴わぬ関心を抱きつつ、自分の力の及ぶところにのみ集中できるような自分になれると良いのだが。今はまだ途上も途上、ともすれば無関心、ともすれば無益な思い込みを繰り返す日々である。

メモ 2015/09/11 晴れ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 今日は久しぶりの快晴だ。 こんな日は気持ちもアガる。
などと、このブログにしては珍しく、天気の話題なぞをしてみた。というか、自分の内側以外のことを話題にすること自体、珍しいというか。
以前、このブログのことを「暗い」と言われたことがある。そもそもタイトルからして暗い、と。
他には、「宗教とかやってるんですか?」と聞かれたこともある。まあ、価値観の話ばかりしてりゃ、そうも見えるだろうな。
このブログ、何一つ大事なことは書いていないが、自分の内面をそのままさらけ出しているというところにだけは自信がある。 そのブログが暗いとか、宗教がかっているとか言われるのなら、ぼくの内面をそのまま外に出したとしたらそう見えるかも、ということなんだろう。
ぼく自身は暗いことばかり書いているつもりもないし、宗教にかぶれているわけでもない。 そもそも明るいとか暗いとか、うーん、どうでもいい。何が暗くて何が明るいのか、今となってはよくわからない。人が判断することだ。 宗教というよりは、哲学なのだと思いたいが、こう書くと哲学マンセーしているようで、またそれも違和感がある。要は、ごちゃごちゃとくだらないことを考えてるだけだ。
あ、新宿着いた。これにて終了。

メモ 2015/09/04 悟り

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- ここ最近、ある悟りを得た。
「我が人生に悟りなどなし」ということを悟ったのである。
このフレーズには、深刻な矛盾がある。悟りなどないのならば、この「悟り」すら存在しえない。つまりこのフレーズは論理的に偽である。だが、それが「悟りがない」ことを表すならば、結果としてこのフレーズは論理的に真となる。
矛盾を孕んでいるから、このフレーズにはトータルで意味がない。論理的な遊びとして、個人的に少し面白がる程度の価値しかない。それでいい。
悟りを得ず、知識を得ず、学びを得ず、気付きを得ず、ただ死の瞬間まで生き続ける。どうか、人より悟っている、勝っている、知っているなどと、二度と思い上がることのない人生でありますように。

メモ 2015/09/02 腐る

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- このブログを書こうとして、ふと、下書きのままになっている文があったので読む。苦痛である。読むに耐えない。
このブログは、その時その時思ったことを書き連ねているだけなので、時間が経って心情が変わってから、昔の文を読むと、全く共感のできない駄文に思える。
文章は、腐るのだ。
プログラムと同じだ。随分昔に書いて、ずっと動かしていないプログラムがあったとする。久しぶりに動かす時の不安と言ったら。9割9分、動かないだろうと予想して動かす羽目になる。
だが、一度一般公開した文章は、あまり腐ったと感じないのが不思議だ。というより、昔書いた自分の文章って、他人が書いたものみたい。腐るというか、他人事。 公開するまでは自分一人の持ち物だが、公開するという行為が、文章を一人歩きさせることに繋がるのだろうか。
ということで、この文章もなんの薬にもならない駄文だが、公開する。公開しなかったら、ただ下書きのまま腐らせて、あとで削除するだけだから。
ああ、またインターネットに一つゴミを増やしてしまった。