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メモ 2015/08/19 無知

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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最近、自分がどこまでも無知であるということをよく思う。

無知の知、というやつだ。だからと言って、残念ながらソクラテスのレベルに自分が達したというわけでもなく、ただただ自分の無知を省みる機会が増え、どこまでいってもぼくは無知なのだ、というある種の諦念を身につけたというだけである。
 
元々、哲学的な思考に足を踏み入れたのは、エンジニア的な好奇心が強かったからであるように思う。エンジニアリングの知識を身につける上で(というか学業全般であろうが)重要なのは、本質的な理解である。それは、理系的な面からいうとこの世を支配している法則の理解であり、文系的な面からいうと創始者や創作者の思想を理解することに他ならない。

ある時、こうした本質理解の欲求が社会そのものに向いた時から、ごちゃごちゃ考える日々が始まった。その日々がもたらしたものは何なのか、今はまだよくわからない。

ただ一つ、最近感じることであるが、もし社会や人間の本質を多少なりとも理解したところで、大したことではないということだ。この世界を動かしているのは、ぼくを含む市井の人々の日々の行動であり、それらの行動はそれぞれ専門分化された知識体系を背景とする。それらの膨大な知識と行動は、「社会と人間の本質」とやらと何らかの関連を持っているかもしれないが、だからと言って本質を理解した人間がオールマイティになんでもできる訳ではない。哲学者が万能じゃないのは、考えるまでもない(むしろ役立たず?)。

結局、社会や人間の本質を理解して、それを自分の人生に応用したいと考えたが、結局そんな応用は叶うべくもなく、日々それらの職能に従事している人々こそが知恵と経験を蓄え行動していてエライ、ということを知るだけに終っただけでなく、そもそも本質理解とやらが可能なのかどうかすら怪しい、いやむしろ人間には多分無理ということが分かってきたというのが事の顛末である。

得られたものといえば、自分には知らない事だらけであり、知らぬまま死ぬのだという事実への気づきと、ぼくの知らない事を知っている他者という存在への驚きと敬意くらいであろうか。まあそれはそれで、得たものとしては悪くない。ただ、こんだけごちゃごちゃ考えて成果がそれだけというのはコスパ悪い事この上ない。もう少し、上手に人生の時間を使えないものなのか、自分。

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両端

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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

符号

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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった