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メモ 2015/08/04 意味2

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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昨日「意味」というものについて考えたが、まだ足りないので続き。

意味と価値

意味と価値は、時に同じような文脈で用いられる。「意味がない」は「価値がない」と同義であることがよくある。「それ、やる意味あんの?」という問いかけは、「それ、やる価値あんの?」と言い換えても違和感がないように思う。
この理由を探るために、価値判断のプロセスについて少し想いを巡らせてみる。

「価値があるかないか」は、対象の意味を解釈していないと判断できない。100円玉と50円玉のどちらが価値が高いかは、それらの硬貨が指す意味を理解していなければならない。ここから演繹すると、意味解釈は価値判断に先立って必要とされる。まさしく、「意味がわからなければ判断のしようがない」。

だから、「意味がない」は「価値がない」と近い文脈で用いることができるのであろう。本来、価値を判断するには、意味が必要とされる。意味がないのであれば、価値の判断のしようがない。価値判断ができない場合、人は価値判断を保留せざるを得ない。その状態は、「価値がある」ことを望む人にとっては満たされるものではない。

人は、「自分の人生を価値あるものにしたい、価値あるものだと人にも思われたい」と願うからこそ、自分の人生に意味付けを求めるのではないか。

意味付け

さて、「意味付け」という言葉が示す通り、意味は恣意的に設定することができる。人生の意味、プロジェクトの意味(ミッション)、会社の存在意味(意義)…などなど、事物が先行し、あとから意味を加えるという行為が実際に行われているのは、枚挙にいとまがない。

それもよく考えれば当たり前のことで、世界は実際に存在(実在)しており、出来事は実際に世界の中で絶え間なく起きているわけで、「意味を付ける」という行為に対して実在が先行するのは当然だ。

この、「意味付けは恣意的な行為である」ということに気づくと、色々なことに応用できる。例えばあるプロジェクトが失敗に終わったとする。プロジェクトメンバーは、プロジェクトに関わった時間が全て無意味だったのではないかという不安で落ち着かない気持ちになる。そこでリーダーが、「プロジェクトは失敗したが、次に繋がる多くの学びを得た。次に活かそう」と宣言したとする。すると、その失敗プロジェクトは、「次に繋がる多くの学びを得る(ためのものだった)」という意味付けを与えられ、メンバーはホッとする。プロジェクトに費やした時間が「無意味=無価値」ではなかった、ということに安心するのだ。

他の例を挙げよう。
スティーブ・ジョブズは、iPhoneを初めとした革新的な製品を世に送り出した、史上最も偉大な偉大なイノベーターである。もしこの文章が正しければ、スティーブ・ジョブズ(の人生)は、「史上最も偉大な偉大なイノベーター」という意味付けがなされたと言って良いだろう。「史上最も偉大なイノベータといえば」スティーブ・ジョブズ、といった具合である。ではこの意味付けはいつなされたのだろうか。また、誰がその意味付けをしたのか?こうした意味付けは、彼が実際に革新的な製品を世にいくつも送り出すにつれて、彼以外の多くの人びとによってなされたのである(そして彼が亡くなったあと、更に多くの人びとによって、その意味付けは不動のものとなった)。彼は産まれた時から偉大なイノベーターであるとみなされていたわけではない。

こうして考えると、シニフィアンとシニフィエの関係は、単に「固定されていない」というだけではなく、非常にダイナミックなものであると気づく。先行する実在に対して、それを言い表す(別の)言葉を与えた瞬間から、シニフィアンとシニフィエの関係が発生する。例えばそれは、新種の生物に対して命名を行うという行為かもしれないし、既に名前を与えられているもの(「スティーブ・ジョブズ」)に対して、別の「代名詞」(「史上最も偉大なイノベーター」)を与えることかもしれない。そして、そういう「意味付け」が行われたあとは、そのシニフィアンとシニフィエはイコールの関係となる。「スティーブ・ジョブズといえば最も偉大なイノベーターであり、最も偉大なイノベーターといえばスティーブ・ジョブズ」といった具合である。ただし、こうした意味解釈が通用するのは、特定のコミュニティ、特定の時代に限られたことであることは注意が必要だ。アフリカの原住民に「史上最も偉大なイノベーター」を訪ねても、スティーブ・ジョブズの名前が出てくることはまずあるまい。

ここでまた、人生の意味ということについて考える。人は誰でも、自分の人生を価値あるものにしたいと望むだろう。人によってその度合いは様々だが。
人生に対する価値判断を行うのは誰だろう?自分?他者?

自分が自分の人生に価値を認める、それがあるべき形だ。それは自分の人生に満足するということだ。

ただ、自分の人生に価値を認めるために、他者からの評価を必要とする人は実に多い。誰からも認めてもらえないまま、もしくは誰からも忘れ去られつつ、自分の人生に価値があったと満足して死ぬというのは、なかなかに難しかろう。

では、他人に価値を認めてもらう、しかもできるだけ多くの人に…という場合どうするか?

行動により、自分の存在を知らしめることだ。それは、その行動によって代名詞を獲得することと言って良い。「白石さん?ああ、○○の人ね」という具合に。これはつまり、先に述べた「意味づけ」と同じことだ。この「○○」が、ユニークであればあるほど、固有の意味を持つことになる。

つまり、自分の人生に価値を感じたい人が取る行動は意味の希求であり、それは人々の記憶に残るような代名詞の獲得である。

ただ、代名詞の獲得そのものが目的になってしまった場合、人は突拍子もない行動に出て、悪名すらも望むことがある。これが、功名心を動機とした犯罪の原因であろう。すると、犯罪者として名を残すことで、人生に一応の意味は付くものの価値が低い、ということになってしまう。

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両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

符号

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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった