2015年8月3日月曜日

メモ 2015/08/03 意味

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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意味という現象には、恐ろしく多くの哲学者や言語学者が取り組んで来たであろう。ぼくはソシュールがシニフィアンとシニフィエを分けて考えたことくらいしか知らない。なので、今から論ずることは、既存の研究を一切あたることなく、意味という現象について考えた、素人の手なぐさみである。

まず、シニフィアン(記号)とシニフィエ(意味されるもの)の関係は必然的なものではない。限られた時代、共同体の中での強固な相互了解によって成り立つものである。

シニフィアンは言語であることが一般的だが、非言語、例えばジェスチャーとか、アイコンとか、擬音とか…も、特定の意味を指し示すことがある。あえてひどい例を持ち出すなら、「くぱぁ」という擬音は、一部の人々にとっては明確な意味を感じさせる。要は、「記号」であれば何でもシニフィアンになりうる。

ここで、「人生の意味」について考えてみたい。これは、「誰かの人生がシニフィアンであり、それが指し示す意味」ということになろう。固定のシニフィエを持たないシニフィアンが人生であり、「人生の意味を探す」というのは、「人生という記号が示すシニフィエ探し」であると言ってもよかろう。意味を問うた瞬間に、人生そのもの(「人生」という単語ではない)すらも記号になりうるとは!

もう一つ、「意味」と「価値」についても考えたい。この二つの単語は、似たようなコンテキストで使用されることが多い。「ぼくの人生には意味がない」というのは、「ぼくの人生には価値がない」と言っているのとほぼ変わらないように感じる。

「人生に意味がない」というフレーズを読み解くに、「人生」という記号に意味が伴わない、つまりシニフィエを伴わないシニフィアンであるということだ。ナンセンスな記号。

そうした記号は、人間の記憶に残らない。人間の記憶は、シニフィエの記憶だ。「言葉が出てこない」という現象は、「シニフィエは思い浮かんでいるのだが、そのシニフィアンたる言語を思い出せない」ということだ。意味のない記号は覚えていられない。

だから、「意味のない人生」は、人々の記憶に残らない。人はそれを嘆くのだ。その嘆きを避けるために、人生に意味を持たせたい、と多くの人は願うのだ。自分の人生を、少しでも「価値があった」と思いたいがために。