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メモ 2015/07/23 道徳

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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道徳を自分なりに定義すると、「善悪を測る価値観」である。そして、もちろん善悪の判断は個人の行動を縛る物であり、自由という観点から見れば一つの抑圧である。

価値観、または価値ということについては、以前に何度か述べている通り、人間が創造した、人間の認識にしか存在しない、相対的な概念である。

つまりぼくは、道徳とは極めて相対的なものだと考える。時代、国、地域、家庭などにより、道徳の基準は様々だろう。人を殺してはいけない、という基本的な道徳的価値観ですら、戦場に場所を移すだけで、全く通用しないのだ。

「道徳が実在しない」と結論付けたあとは、個人的に、モラルを保つのに苦労した。自分の中に芽生える良心の声が、なんら客観的な根拠を持たない、単なる幻聴に過ぎないとしか思えなくなってしまったのだ。そして、道徳の枷を外したならば、そこには確かに広大な自由が広がっていた。ニーチェが目指した自由はまさにこれであろう。

ただ、その自由を謳歌するためには、社会との軋轢が避けられない。モラルは幻想だと独りごちてみても、明文化された法や暗黙の了解という形で、社会の構成員を縛る枷として強力に機能しているのは間違いない。既成概念としての道徳に挑戦し、戦いを余儀なくされてしまった人々の例には事欠かない。古くはニーチェがそうだし、最近でもぱっと思いつくのは、「猥褻」という定義に挑戦しているろくでなし子さん、「人生一度、不倫をしましょう」という強烈なコピーで不倫を商用化したアシュレイ・マディソンが、深刻なハッキング被害にあったり、といった具合だ。

ともあれ、「なんらかの真理が後ろ盾になっているはず」と盲目的に受け入れていた道徳という価値観は、実は「特定の共同体における特定の時点での共同了解」にしかその根源を見出せず、自分の中では受け入れがたいものとなってしまった。社会に自分を順応させるために仕方なく従うべきもので、自由に枷をはめる物としか感じられなくなってしまったのである。

こうした状態は、本当に最近まで続いていたのだけれど、あるとき自分の中で急に道徳との折り合いが付く瞬間があった。確かに、道徳とは客観的に実在するものではあり得ない。実在はないが存在はある、という観点に立ったとしても、依然として個人の自由を縛るものという性質が変わるものではなく、盲目的に受け入れるべきものではない。だが、自発的に受け入れることはできる。道徳には、この社会で幸福を追求するための様々な知恵の集積という側面もある。道徳に背いて自由を手に入れることは可能だが、うまくしないと社会との軋轢が避けられず、ひいては「不幸」に…(刑罰や社会的制裁などの)より大きな不自由を強いられる可能性もある。
そして何より、良心という現象が、悪を遠ざけ、善を欲するという気持ちを呼び起こさせる。善悪の基準は相対的で、「何が善か」は人によって全く異なるとしても、各人にとって「善行」は、欲望するものなのだ。

と言っても、「人は生まれながらにして備わった良心により、善を欲する」などと、お花畑のようなことを言うつもりはない。
何度も言うように、善悪の基準は相対的であり、ある人にとっての善が、ある人にとっては悪ということもあり得る。というか、それは極めて一般的な現象だ(ウヨクとサヨクの主張の食い違いを見てみればいい)。
それに、良心というものは、極めて社会的で、後天的なものだ。子どもを3人も育ててみれば、「人は生まれながらに良心を持つ」なんて、全くのデタラメだとわかるだろう。カントが道徳をアプリオリなものとしたのは楽天的に過ぎる。善悪の基準は、周りが教え込むものだ。「それはしちゃいけないことなの」と、毎日、何度となく繰り返す洗脳だ。

このダラダラとした小論に結論めいたものを書くとする。

道徳は実在しない。共同体が作り上げた社会的規範であり、個人の自由にとっては枷だ。

そのことに気づくと、道徳を軽んじる、もしくは敵視する気持ちが生じるのは致し方ないところだ。ニーチェのように挑戦することも、傲岸不遜になることも、ニヒリズムに陥ることも、単なる「悪党」に成り下がることもできる。

ただ、そんな道徳を主体的に受け入れることもできる。

世渡りのためでもいい。道徳は、世渡りのための知恵の集積だ。
良心の欲するところに素直に従う、というのでもいい。その良心が例え、幼い頃に受けた教育(洗脳)によるものだったとしても、それすら受け入れてしまえばいい。所詮、自分の価値観など、他者からの受け売りや洗脳の結果であることがほとんどだから。

ぼくは、既成概念に挑戦する気概もないし、良心という洗脳から解き放たれる努力をするのも面倒なので、「良心の欲するところにより」道徳を受け入れることにしたのである。

補足

こんなぼくでも、「道徳教育」には強い反発心を覚える。国家が善悪の規範を国民に刷り込む、という行為はろくな結果をもたらさないだろう。
国民に価値観を刷り込めるとなった場合、おそらく権力は際限なくそれを欲望するだろうし、歯止めも効くまい。そして、道徳という「枷」を、年端もいかぬうちから国民にはめようとするのは、個人の自由に対する極めて重大で、極めて意図的で、極めて巧妙な、被害者が被害を受けたことに生涯気付かない可能性の高い犯罪だと考える。

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ゆるGEB(げぶ)という読書会を開催しました

昨日、通称「ゆるげぶ」こと「【ゆるふわ】ゲーデル・エッシャー・バッハ読書会」という会を催してきた。

その名の通り、ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環という本をみんなで読む会である。株式会社コパイロツトさんに場所をお借りして、男性3名、女性5名という男女比での開催となった。なんの気負いも打算もなく、純粋に(知的)好奇心だけで行動できる人が女性には多い。これって実はすごいことだと思う。

そして、「ゆるく読もう」をテーマに集まり、参加者みなそれを心がけていたはずなのに、結局のところ3時間超、自己紹介の時間を除いても2時間程度、みながみな必死に思考の限りを尽くす時間となった。

まだ序論しか読んでいない状態なので、「この本はどんな本(だった)か」を語れる立場にない。しかしそれでも言えることは、とにかく難物である。文章そのものは平易で、表現もストレート。難しい専門用語もほとんど使わない。なのに、難しい。とにかく次々に「知性で乗り越えねばならない壁」を眼前に突きつけられるような感覚を抱かされる本である。

だからこそ、乗り越えた時は喜びもひとしおである。昨晩は、「数論の命題を数で表すことができれば、数論の命題が数論の命題についての命題であり得ることを見抜いた」という文章(P.33)について、参加者が次々に説明にトライしては玉砕していたり、集合についての問題(P.37)についてみんなで数十分頭を悩ませたり…と、これまでの人生であまり出会ったことのない体験に遭遇できた。いろんなイベントを企画してそれなりの体験をしてきた身としては、こういう新感覚に出会うことは望外の喜びである。そうか、人間は難しいことに悩むという体験も、共有することでエンターテイメントに昇華できるのだな、と。

個人的な理解はまだまだ追いついていない状態だが、これからの展開に対する予感も含めて現時点での感想を書くと、「『(論理的に)考える』とは何なのか」について語っている本なのだろうと感じている。

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符号

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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

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こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。

両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

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別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
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