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メモ 2015/07/10 価値観

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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「価値観を人に押し付けない」

ただこの一言を実践せんがために、もう何年、価値ということについて考えているのだろうか。

「自分の価値観は絶対ではない」と気づいたのは確か4,5年前になる。30過ぎてようやく気づいたという、自慢にもならないどころか恥ずかしい話である。

その頃世間はソーシャルゲームがブーム。ただぼくはそんな狂騒が嫌いで、自分がそれを嫌いであることを公言して憚らなかった。
そんな折、とても好感の持てる若者に出会い、何かにつけておせっかいを焼いていた。その彼と食事に行ったときに初めて聞いたのが、彼は「ソーシャルゲームを心から好きである」ということだった。当時のぼくにとっては、「そんな人がいるのか」と驚くと同時に、自分が好感を持っている人間の口から、自分の当時の価値観と全く真逆の言葉が出たことに衝撃を受けた。さらに彼の言葉を聞くと、本当に、純粋にソーシャルゲームを好きであることが伝わってきて、その言葉を聞いているうちに、大してやったこともないくせにソーシャルゲームを嫌いだとか批判している自分こそ、矮小な人間であると気づいたのだった。

それ以来、自分の価値観というものに常に疑問を抱き続け、少なくとも人にそれを押し付けないよう、常日頃から心がけているつもりだ。しかし社会生活を営む上で、どうしても自分の価値観を人に伝えなくてはならなかったり、軽口でつい出てしまう…といったことも、よくある。そうして自分の価値観を人に晒してしまったあとは常に、自分の価値観の押し付けをしてしまったのではないか、とんでもない間違いを犯したのではないかといつも不安や後悔に駆られる。だが、自分の価値観を人に晒すという行為をゼロにすることはおそらく不可能で、そういう時はしょうがなく、控えめに、「個人的には」という枕詞を必ず欠かさぬようにしながら、自分の考えを開示するほかない。

そもそも価値という概念が極めて人間的で、相対的なものだから、自分の中に一方的なものの見方が発生しているとすれば、必ずそれは不完全で、必ず反対できる余地を含んでおり、必ず誤っているのだ。価値観を人に押し付けることへの恐怖感は、そうした誤りを人に伝えてしまうことへの恐怖だったり、自分と違う価値観を持つ人々を傷つけてしまわないか、不快な思いをさせてしまっていないか、という恐怖に他ならない。

自分が価値観の違いで人を傷つけず、また傷つけられないように生活できるとすれば、それは自分と近しい価値観を持つ人々の中で暮らしているからでしかない。自分の持っている価値観が多数派であれば、価値観の激突事故に遭遇する確率はそれなりに減らせる。ただそれが少数派だったりした場合はなかなか大変で、できる限りその話題に触れないように心がけ、触れてしまったとしても自分の意見は表に出さず、人の意見をニコニコ笑って聞いている…といった忍耐を必要とされることもあろう。

こうした「激突事故」はもう勘弁、という気持ちが強くあるものだから、最近ぼくは、そもそも価値の高低や物事の是非を考えない、ということを心がけている。汚いものも綺麗なものも、価値は変わらない。一般的な道徳に反する行為を見かけたとしても、それがいい大人のやることであれば、ぼくはそれを「悪いこと」だとは捉えない。「一般的には悪いとされてるみたいだから、気を付けなよ」くらいは思うし、言うかもしれないが。

かくしてぼくは、「価値」という概念から解放されることを強く望んでいる。しかしそれは、一般的な社会生活を営むことを望んでいる身としては、おそらく不可能だ。なぜなら、何かを決断する際や意志する際には、必ず価値判断が必要になるからだ。「決める」「望む」という行為には、必ず「(自分にとってそれが価値が高いと思うから)」というフレーズが隠れていると思うからだ。「すべてのものは無価値である」という言葉は、俗世を離れる覚悟がないと口にはできまい。それはまだ早い。そんな俗人たるぼくにできることは、価値判断という悪癖をしょうがなく受け入れ、他者の多様な価値観をなるべく否定することなく受け入れ、価値判断を行う際には常に自分が「誤りを同時に犯している」ことを意識しつつ、慎ましく行動していくしかあるまい。

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近況

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 久しぶりの書き込みである。が、書きたいことが特にある訳ではない。 今年初めは、価値観という長年追ってきたテーマについて多くの発想があったので、よくアウトプットしていた。そこについてもひと段落してからは、特に書き留めておきたいこともなく、今に至る。
価値観の件については、以前得た様々な発想を実践に移しているところだ。悪くない。誰のどんな価値観を開示されても、どうせこちらにはイエスと答えるしか選択肢がないので、余計なことに思い煩わずに済む。何を言っても肯定されるという雰囲気が相手に伝わるのか、以前ならなかなか話してもらえなかったような、個人的なことを開示される機会も増えた気がする。
仕事などについては、精一杯やってるとしか言いようがない。ただ、個人的には、死ぬまでの時間を遊んでいるという感覚は日増しに強くなっている。これも、価値の相対化によるものだろう。例えば何が無駄か、無駄でないかを判断するのは、主観の産物でしかない。遊びは無駄で、仕事は無駄じゃない。そんな感覚を失ってみると、全てが水泡に帰するかもしれない遊びでしかなくなる。全くもって不真面目な人間になりつつある。
目下の一番の悩みは食生活だ。爛れた食生活が嫌でたまらないのに、一向に改善しない。要は食の快感に依存している訳だ。しかも、その快感は毎食ごとに呼び起こされてしまうものだからタチが悪い。この依存を断ち切り、健康に関する不安を取り除きたい。そしてできれば長く人生を遊んでいたいというのが、今最も望んでいて、手に入らないことである。

ゆるGEB(げぶ)という読書会を開催しました

昨日、通称「ゆるげぶ」こと「【ゆるふわ】ゲーデル・エッシャー・バッハ読書会」という会を催してきた。

その名の通り、ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環という本をみんなで読む会である。株式会社コパイロツトさんに場所をお借りして、男性3名、女性5名という男女比での開催となった。なんの気負いも打算もなく、純粋に(知的)好奇心だけで行動できる人が女性には多い。これって実はすごいことだと思う。

そして、「ゆるく読もう」をテーマに集まり、参加者みなそれを心がけていたはずなのに、結局のところ3時間超、自己紹介の時間を除いても2時間程度、みながみな必死に思考の限りを尽くす時間となった。

まだ序論しか読んでいない状態なので、「この本はどんな本(だった)か」を語れる立場にない。しかしそれでも言えることは、とにかく難物である。文章そのものは平易で、表現もストレート。難しい専門用語もほとんど使わない。なのに、難しい。とにかく次々に「知性で乗り越えねばならない壁」を眼前に突きつけられるような感覚を抱かされる本である。

だからこそ、乗り越えた時は喜びもひとしおである。昨晩は、「数論の命題を数で表すことができれば、数論の命題が数論の命題についての命題であり得ることを見抜いた」という文章(P.33)について、参加者が次々に説明にトライしては玉砕していたり、集合平についての問題(P.37)についてみんなで数十分頭を悩ませたり…と、これまでの人生であまり出会ったことのない体験に遭遇できた。いろんなイベントを企画してそれなりの体験をしてきた身としては、こういう新感覚に出会うことは望外の喜びである。そうか、人間は難しいことに悩むという体験も、共有することでエンターテイメントに昇華できるのだな、と。

個人的な理解はまだまだ追いついていない状態だが、これからの展開に対する予感も含めて現時点での感想を書くと、「『(論理的に)考える』とは何なのか」について語っている本なのだろうと感じている。

アキレスが亀に追いつけない」という逸話で有名なゼノンのパラドックスや、「クレタ人はみな嘘つきである」で有名なエピメニデスのパラドックス、そして先ほどの集合平はラッセルのパラドックスから着想した問題らしいが、現実世界では問題にならないことが、思考で捉えようとすると、論理として成立せず、真とも偽とも言えない状態が…

2017

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 新しい年が始まった。初日はぼくの実家でダラダラしながら、合間にグダグダものを考えていた。ここに示すのはメモであり、私以外の人間が読んでもおそらく意味がわからないだろう。
昨年は、あらゆる価値観を肯定する術を見出したように思い、実践する日々であった。その結果得られた洞察もある。
あらゆる価値観を肯定しようとするものには、いくつかのハードルが現れる。
一つが道徳の問題。道徳に反することを肯定することは可能か、という問題である。これは陳腐な問いのようであり、答えは常にイエスとしか思えない。しかし、道徳の表す対象が、社会的な規範ではなく、内面的な規範や美学であった場合、事は複雑になる。私は、(自分的には絶対許せないと確信している)麻薬の売人や、女性や子供に暴力を振るう男を肯定できるのか?という問題である。絶対に肯定はしたくない。しかし一方で肯定もしたい。それは無矛盾を求める気持ちからである。
一つが主客の問題。私が許せるもしくは許せないことと、社会的に許されているもしくは許されていないことの間に、不一致があった場合のジレンマである。
さらに一つは、勉強熱心な政治家のジレンマである。政治家は勉強熱心であればあるほど、大衆の感覚がわからなくなっていく。大衆はそこまでものを考えていないからだ。これは、大衆をバカにしているのではない。専門家とそれ以外、という構図がある場合にはどこにでも成り立つことであり、いわば社会の至る所にあるジレンマである。ただそれが政治家の場合は、大衆の気持ちと乖離するということが彼にとって致命的だということだ。もしかすると国の将来にとっても。そういう意味で、私は昨年のトランプショックのことは忘れないだろう。 そして、私は価値観についての諸々を考えるうち、一般的な感覚からはだいぶ遠いところに来てしまった感覚がある。おかしい、私は社会一般、人間一般を探求していたはずなのだが。
このうち、前の二つについては今日、解決のヒントが見えた。
個人の価値観と集団の価値観の間にジレンマがある、というのが二つの問いの前提にある。そしてそこに乖離が生じたときに問題が発生する。
しかし私は実は、乖離が生じたときの問題については昨年乗り越えていたのだった。すなわち、社会的な価値観を受け入れるかどう…