2015年7月11日土曜日

メモ 2015/07/10 価値観

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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「価値観を人に押し付けない」

ただこの一言を実践せんがために、もう何年、価値ということについて考えているのだろうか。

「自分の価値観は絶対ではない」と気づいたのは確か4,5年前になる。30過ぎてようやく気づいたという、自慢にもならないどころか恥ずかしい話である。

その頃世間はソーシャルゲームがブーム。ただぼくはそんな狂騒が嫌いで、自分がそれを嫌いであることを公言して憚らなかった。
そんな折、とても好感の持てる若者に出会い、何かにつけておせっかいを焼いていた。その彼と食事に行ったときに初めて聞いたのが、彼は「ソーシャルゲームを心から好きである」ということだった。当時のぼくにとっては、「そんな人がいるのか」と驚くと同時に、自分が好感を持っている人間の口から、自分の当時の価値観と全く真逆の言葉が出たことに衝撃を受けた。さらに彼の言葉を聞くと、本当に、純粋にソーシャルゲームを好きであることが伝わってきて、その言葉を聞いているうちに、大してやったこともないくせにソーシャルゲームを嫌いだとか批判している自分こそ、矮小な人間であると気づいたのだった。

それ以来、自分の価値観というものに常に疑問を抱き続け、少なくとも人にそれを押し付けないよう、常日頃から心がけているつもりだ。しかし社会生活を営む上で、どうしても自分の価値観を人に伝えなくてはならなかったり、軽口でつい出てしまう…といったことも、よくある。そうして自分の価値観を人に晒してしまったあとは常に、自分の価値観の押し付けをしてしまったのではないか、とんでもない間違いを犯したのではないかといつも不安や後悔に駆られる。だが、自分の価値観を人に晒すという行為をゼロにすることはおそらく不可能で、そういう時はしょうがなく、控えめに、「個人的には」という枕詞を必ず欠かさぬようにしながら、自分の考えを開示するほかない。

そもそも価値という概念が極めて人間的で、相対的なものだから、自分の中に一方的なものの見方が発生しているとすれば、必ずそれは不完全で、必ず反対できる余地を含んでおり、必ず誤っているのだ。価値観を人に押し付けることへの恐怖感は、そうした誤りを人に伝えてしまうことへの恐怖だったり、自分と違う価値観を持つ人々を傷つけてしまわないか、不快な思いをさせてしまっていないか、という恐怖に他ならない。

自分が価値観の違いで人を傷つけず、また傷つけられないように生活できるとすれば、それは自分と近しい価値観を持つ人々の中で暮らしているからでしかない。自分の持っている価値観が多数派であれば、価値観の激突事故に遭遇する確率はそれなりに減らせる。ただそれが少数派だったりした場合はなかなか大変で、できる限りその話題に触れないように心がけ、触れてしまったとしても自分の意見は表に出さず、人の意見をニコニコ笑って聞いている…といった忍耐を必要とされることもあろう。

こうした「激突事故」はもう勘弁、という気持ちが強くあるものだから、最近ぼくは、そもそも価値の高低や物事の是非を考えない、ということを心がけている。汚いものも綺麗なものも、価値は変わらない。一般的な道徳に反する行為を見かけたとしても、それがいい大人のやることであれば、ぼくはそれを「悪いこと」だとは捉えない。「一般的には悪いとされてるみたいだから、気を付けなよ」くらいは思うし、言うかもしれないが。

かくしてぼくは、「価値」という概念から解放されることを強く望んでいる。しかしそれは、一般的な社会生活を営むことを望んでいる身としては、おそらく不可能だ。なぜなら、何かを決断する際や意志する際には、必ず価値判断が必要になるからだ。「決める」「望む」という行為には、必ず「(自分にとってそれが価値が高いと思うから)」というフレーズが隠れていると思うからだ。「すべてのものは無価値である」という言葉は、俗世を離れる覚悟がないと口にはできまい。それはまだ早い。そんな俗人たるぼくにできることは、価値判断という悪癖をしょうがなく受け入れ、他者の多様な価値観をなるべく否定することなく受け入れ、価値判断を行う際には常に自分が「誤りを同時に犯している」ことを意識しつつ、慎ましく行動していくしかあるまい。