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メモ 2015/07/07 私的存在論

読者不在で自己満足の塊のような備忘録を書く。ここはぼくにとってそういう場所だ。

一時期哲学に凝っていた頃に、ハイデガーの「存在と時間」の序文を読んで以来、ぼくは「存在とは何か」という問いに関心を抱くようになった。とはいえ、「存在と時間」はあまりに難解で、また、いくつか重要な示唆はあるもののぼくが関心を抱いているポイントとはいささかズレているようにも思えたので、途中で投げ出したままだ。

それ以来、たまに存在への問いを思い出しては少し考え、そして忘れ、また思い出し…ということを繰り返してきた。そろそろ、一度まとめてもいい時期だ。

ない
いつだったか、それまで存在を疑いもしなかった様々なものが、実は「ない」ことに気付いたとき、大きな衝撃を受けたのを覚えている。
今となっては、なぜそれまでその存在を確かなものと考えていたのか、さっぱり思い出せないほどだ。
例えば紙幣の価値。紙幣など、北斗の拳で「今じゃケツを拭く紙にもなりゃしない」と揶揄されているがごとく、ただの紙でしかないと頭では理解しながらも、そこに確固たる価値など存在しないと、真から思えたのは前述の「気付き」からであった。

他にも例えば国境。例えば人権。例えば道徳。例えば正義。枚挙に限りがないが、これらの存在が確固たるものとして感じられていた時分が確かにあり、そしてその時期は過ぎてしまった。あると思っていた多くのものが、実はなかった。色即是空。

この気付き以降、ご想像のとおりぼくは相対主義的になり、少しニヒリスティックに、少し享楽的に、少しアナーキーに、少しインモラルになった。

ある
ただ、少しだけ話には続きがある。存在に対して、一番最近のぼくの気付きは、前述の様々なもの、例えば人権だの道徳だの、がやはり「ある」ということだ。

ただ、「ある」の意味が以前とは少し違う。人権だの道徳だの国境だの正義だの価値だの意味だの、こういうものは、今の時代では大多数の人々が「ある」と考えている。こうした人々の、「存在を信ずる気持ち」こそが、前述の概念にとっての存在の根拠となっている。

もちろん、人々の「(存在への)信仰」だけが拠り所なので、その存在は非常に頼りない。地球規模の戦争が起こって、人々の価値観がリセットされてしまえば、すべてその根拠を失うようなものばかりだ。だが、それでいいのだ。そんな揺蕩うような存在のあり方を人々はともかく受け入れ、「ある」という約束事の上で物事を成り立たせているのだ。「ない」ところに「ある」を積み重ねた砂上の楼閣こそが我々の文明だ。空即是色。それに気付いたとて、それを空しいと見なすか、人間の営みとして尊重するかは、すべて人々の主観に委ねられている。ぼくはそこで尊重する道を選ぶことにした。すると、人間の営みすべてが愛おしく思えるようになった。不思議なものだ。

まとめると。

ぼくが昔「ある」と思っていたものは普遍的な存在ではなく、一旦は「ない」と断じて軽んじ、ニヒリズムに陥ることになるも、同時代人の多くによる「ある」という信仰によって存在が成立していて、そんな不確かな「あり方」を、それこそが存在の本質であると認識した瞬間から、世界が彩りを帯びて見えるようになった。と、そんな個人的な体験の話である。

ここまで書いて気付いたが、存在を認識するためには言語の作用が不可欠なのに、すっかり触れるのを忘れていた。いつかまた存在については書く。

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両端

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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根源を求める、という思考様式を繰り返してきた。

なぜ?を繰り返して根源にたどり着く。
問題を分解し、少数(できれば一つ)の要素にたどり着く。

別にこういう思考様式が悪いとは思わない。こういう思考様式を繰り返してきたからこそ、得られるものもある。「詳細まで知り尽くす」事によってしか得られないものは、あるものだ。
物理運動を語るとか、システムの動きを語るとか。内部を語り、モノを自在に操るには、どうしても細部に向かう思考が必要となる。

ただ、現在事業づくりをしていて、こうした思考様式が全く通じない世界があるとわかった。投資家は、哲学を求めない。原因を求めない。まず「どう儲かるのか?」が説明できないと、全く話にならない。

いつもの癖で、ぼくが抱えるこうした問題の根源をやはり求めてみる。思うに、根源を求める思考と、ビジネス的なマインドの間には、大きく分けて2つの隔たりがある。

一つは、根源を求める活動は静的であることだ。根源にたどり着いたと思ったところで、そこには運動がない。対して、ビジネスは非常にダイナミックだ。時間の経過で状況はどんどん変化する。

もう一つは、根源を求めたところで、その根源となる部分の寄せ集めで全体を語ることができないということだ。これはシンプルに全体論の議論と重なる。部分を足し合わせても全体にはならない。

そして更にこれはレベルがある。低レベルの詳細は、それより上のレベルからは隠蔽されているし、そうあるべきだ。分子運動を研究する研究者は、原子核の詳細を知る必要はない。心理学を研究する研究者は、脳細胞の詳細を知る必要はない。そして、経営をするものは製品の詳細を知る必要はないし、投資を行うものは企業活動の詳細を知る必要はないのだ。

そんなことはない、という反論もあろう。低レベルの詳細を知っておくに越したことはない、と。その反論に対し、実際の現象を引き合いに出さずに再反論することは難しい。天候現象を知るために、クオークの理論を知る必要があるだろうか?と。ただ、これは経験したことがない人に心の底から納得してもらうのは極めて難しいように思える。

今苦しんでいることは、上の2つ、ダイナミズムへの無理解と、全体論的な現象に集約されていると言っていい。

ぼくは、時系…

符号

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。

虚ろな月

月が綺麗だった

空っぽな私を映す鏡のように
虚ろな月が
白く照り輝いていた

手を伸ばせども届かず
見つめれば雲間に隠れ

私の小さなよしなしごとなど
すべて見透かしているかのように
もしくはなにも知らぬかのように

そこにただ
月はあるのみ

ただあるものに意味を宿すのは人
宿した意味に揺さぶられるのも人

ならば意味を宿すに意味はあるか
この詩を綴ることに意味はあるか

虚ろ
虚ろ

虚ろな月が
白く照り輝いていた

空っぽな私を映す鏡のように
月が綺麗だった