読者不在で自己満足の塊のような備忘録を書く。ここはぼくにとってそういう場所だ。
それ以来、たまに存在への問いを思い出しては少し考え、そして忘れ、また思い出し…ということを繰り返してきた。そろそろ、一度まとめてもいい時期だ。
ない
いつだったか、それまで存在を疑いもしなかった様々なものが、実は「ない」ことに気付いたとき、大きな衝撃を受けたのを覚えている。
今となっては、なぜそれまでその存在を確かなものと考えていたのか、さっぱり思い出せないほどだ。
例えば紙幣の価値。紙幣など、北斗の拳で「今じゃケツを拭く紙にもなりゃしない」と揶揄されているがごとく、ただの紙でしかないと頭では理解しながらも、そこに確固たる価値など存在しないと、真から思えたのは前述の「気付き」からであった。
他にも例えば国境。例えば人権。例えば道徳。例えば正義。枚挙に限りがないが、これらの存在が確固たるものとして感じられていた時分が確かにあり、そしてその時期は過ぎてしまった。あると思っていた多くのものが、実はなかった。色即是空。
この気付き以降、ご想像のとおりぼくは相対主義的になり、少しニヒリスティックに、少し享楽的に、少しアナーキーに、少しインモラルになった。
ある
ただ、少しだけ話には続きがある。存在に対して、一番最近のぼくの気付きは、前述の様々なもの、例えば人権だの道徳だの、がやはり「ある」ということだ。
ただ、「ある」の意味が以前とは少し違う。人権だの道徳だの国境だの正義だの価値だの意味だの、こういうものは、今の時代では大多数の人々が「ある」と考えている。こうした人々の、「存在を信ずる気持ち」こそが、前述の概念にとっての存在の根拠となっている。
もちろん、人々の「(存在への)信仰」だけが拠り所なので、その存在は非常に頼りない。地球規模の戦争が起こって、人々の価値観がリセットされてしまえば、すべてその根拠を失うようなものばかりだ。だが、それでいいのだ。そんな揺蕩うような存在のあり方を人々はともかく受け入れ、「ある」という約束事の上で物事を成り立たせているのだ。「ない」ところに「ある」を積み重ねた砂上の楼閣こそが我々の文明だ。空即是色。それに気付いたとて、それを空しいと見なすか、人間の営みとして尊重するかは、すべて人々の主観に委ねられている。ぼくはそこで尊重する道を選ぶことにした。すると、人間の営みすべてが愛おしく思えるようになった。不思議なものだ。
まとめると。
ぼくが昔「ある」と思っていたものは普遍的な存在ではなく、一旦は「ない」と断じて軽んじ、ニヒリズムに陥ることになるも、同時代人の多くによる「ある」という信仰によって存在が成立していて、そんな不確かな「あり方」を、それこそが存在の本質であると認識した瞬間から、世界が彩りを帯びて見えるようになった。と、そんな個人的な体験の話である。
ここまで書いて気付いたが、存在を認識するためには言語の作用が不可欠なのに、すっかり触れるのを忘れていた。いつかまた存在については書く。
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