2015年7月6日月曜日

メモ 2015/07/06 自由について

一つ前の記事で宣言したとおり、読者不在でつまらない、めちゃくちゃな文章を書くのが、このブログの目的である。

手始めに何を書こうか。

ここ数年、ずっとぼくの心を捉えているテーマに「自由」がある。ぼくが人生をかけて挑んでいるのは、自由を獲得するため、そして自由に創作活動をするためだということがわかってきたからだ。

で、ここ最近の政治の話題を見るにつけ、自由の意味に思いを馳せずにはいられない。
思うところは数多くあるが、まずは自民党の若手議員や百田尚樹さんが出席したという勉強会で、「マスコミを懲らしめろ」だとか「沖縄の新聞を潰せ」だとかの発言が出たことに対して。

ぼくは、事の是非にはあまり興味がない。もちろん、自由大好きな身からすると看過できない発言なのだが、それが「正しい」か「正しくない」かを論じるつもりはないし、そんな知識もないし立場でもないし、他人を断罪するということに興味もない。人は人だ。

ただ、このことが世の中に投げかけた問いは非常に興味深いものだったと思う。すなわち、「他人の自由を侵害する発言を行う自由はあるか」というとのだ。
渦中の彼らの発言は、「マスコミ」に対する(報道、言論の)自由を侵害するものだったと言っても良かろう。こうした発言を行うことを、言論の自由は保証するのだろうか?

まあ、こんな問題は今に始まった事ではない。どこで読んだか忘れたが、「民主主義を否定するような言論を、民主主義は許容すべきか」という議論は古くからあるそうだし、今回の件もまさにそれと同カテゴリー、変奏ですらない。先行する研究も数多くあることだろう。

それと知りつつ、そして自分の無知を知りつつ、思うところを書いてみる。個人的には、「どんな言論、表現であっても、まずは自由が保証されるべきだ」と考える。それが民主主義を否定するものであっても、他者の人権を踏みにじるようなものであっても、虚偽であっても、極めて偏向していようともだ。

そうした言論、表現に対して評価を行うのは、その時代の人間たちによる、これまた言論(報道)といった手段であるべきで、そこに権力の介入、例えば法律などは必要ない。他者の自由を著しく毀損するような言論、表現には、相応のリスクを伴う。時に社会全体から総叩きにあうようなこともあるだろう。他者の自由を軽んじたことへの制裁は、そうした形で与えられる。

自由を侵害するような言論に対して、「そうした言論を行う自由を侵害する」言論が抑圧を加えるという構図、そこに国の権力は介入しない、そういう構図が望ましいように思う。自由は壊れやすい。国の権力が介入して、言論に一定の線引きを行うことは、権力による自由の侵害に歯止めを掛けられず、時の権力が是とする価値観を肯定する法整備が行われてしまい、果ては全体主義、抑圧的な社会主義に繋がる道であると考える。

他者の存在を前提する社会という場において、完全な自由はあり得ない。あるのは、自由を尊重し、そして侵害し合う個人間の相互作用だ。多様な価値観を認め、積極的に発言し、他者の自由を侵害する言論には、これまた言論が戦いを挑む。今この瞬間、個人的に好きな思想はそんな感じだ。将来に渡って価値観が変わらないことを保証はしないが。