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謙虚

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 今年あった、非常に好ましい変化としては、謙虚になったことが挙げられる。
スタートアップをやる、となると、一人ではできないことだらけなわけで、自然と自分の力の至らなさ、小ささを悟る。今まで持っていた自信なんてものは、自分にできることの範囲内が世界の全てだったと勘違いしていたことに起因するとしか、今は思えない。
「努力すれば、なんでもできる」という幻想は、はるか遠いものになってしまった。ついでに言えば、努力すれば報いられるなんてことも思ってない。自分に何がしかの価値があるなんてことも思わないし、そんなことを考える自分が、この世で最も無価値なのだとも思う。世界で一番価値がないのは、このぼくだ。
説明が難しいのはここからで、ぼくは先に述べたような、一見するとすごくネガティヴな思考を、とてもポジティブに考えているということだ。自分に大した力がないことを自覚すれば、人に頼らざるを得ない。人に頼る、それが受け入れられるというのは、この世で一番楽しいコミュニケーションだ。自分に価値がない、というか、価値判断という行為を投げ捨てる。すると、自分に価値があるかとか、人生に価値があるかとか、そんな愚問に頭を悩ませずにすむ。
世界で一番、価値がないのは自分という存在である。そしてそれを喜ばしく思う。これこそ究極の謙虚。ひがみもない。人の良いところを積極的に認められ、知ったかぶりをすることもなく、勝ちも負けも素直に認められる。
…と、まるで悟ったかのようであるが、まだまだ道半ばである。自意識が頭をもたげたり、知ったかぶりしてしまったりということは、未だによくある。日々精進。

軽視

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- ぼくはバカだから、そのときの価値観に照らし合わせて、すぐ物事を軽んじる。
例えば今は、ポエム的なこと、答えがない物事に対するマニュアル的な文章、他人が発見した「気付き」、綺麗事、その他自分が興味ない事柄全部、すぐに軽んじようとする。そして、そういうものに触れるのを避けようとするので、どんどんそういうものとの距離が開き、さらにそういうものを嫌うというループになる。
逆に今興味があることはリアルで生々しい出来事、人間のどうしようもなさ、生々しい欲求、資本の論理などだ。こういうものをみると、今は無条件に肯定し、そこに真実があるかのように感じ取ってしまう。
しかし、少し前までは全くの逆だった。非営利団体を立ち上げたり、社会事業を志してビジネスプランコンテストに入賞するくらいには。
要はまたも、価値観の問題なのだ。ぼくはその時々の価値観次第で、世界に対する見方が全く変わる。そして、ぼくが世界をどう眺めているかに関わらず、世界はありのままにある。
世界をありのままに見たい、という欲求は常に、強く抱いているが、それはおそらく果たされない願いなのだろう。価値観という呪縛。
ただ、自分が物事を軽んじて見た瞬間、そのことに気づくことはできる。その時、自分が「今、この瞬間の」価値観の奴隷になっていることを自覚できる。
つまり、「軽んじる」という行為をした瞬間に、ぼくは過ちを犯しているのだ。そうした過ちを自覚し、その時自分が軽んじようとした物事の価値を積極的に認めていく。こうしてようやく、自分の価値観という濁ったフィルターを、少しは透かして見ることができる、ような気がする。

2015/12/09 境界

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 最近、チームのエンジニアリングについて知ったこと。
どうやっても、分業ってのは発生する。効率を求めるなら、担当者を一度決めたらあまり動かさない方がいい。誰でも、どこの仕事でもする、できるっていうのは、理想でも何でもない。
人がやってた仕事を引き継ぐと、どうしたって前任者の仕事を理解するのに時間が掛かる。また、自分の仕事のやり方と違うので、どうしたって気にくわない。で、結局、全部直したくなってしまう。リファクタリングという名目のもと、すべて書き換え、機能的にはデグレしたり、バグを仕込んでしまったりする。
だから、思い切って分業し、担当者を決めてしまうことが、全体の能率を最大化する一つの道だ。
ただし、二つ問題が生じる。 一つは意思決定の問題。意思決定者を分ける(これも分業)事になるので、意思決定者の責任が相対的に重くなる。意思決定者は、この重責に耐えなくてはならない。 もう一つは、縦割りの問題。担当者を分けてなるべく動かさないようにするなら、自分の責任範囲以外に関心がなくなるのは自然な流れだ。
これを打開するには、コミュニケーションするしかない。特に、責任範囲の境界線でのコミュニケーションは、とてつもなく重要。

2015/12/04

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 学びの日々である。先日、TechFeedというアプリをリリースしたが、そこに至るまでの過程は、とてもではないがスマートとは言えないものだった。圧倒的な(うまくいかない)現実が日々押し寄せ、その場その場でベターと思われる対処を繰り返す。ベストなど、望むべくもない。問題を「解決する」などと甘っちょろいことは言っていられない。とりあえず対処して、問題を未来に先送りするのが精一杯。
…こんな文章を、少し前の自分が読んだら、「最悪」という評価を下しそうだ。問題は、いついかなる時でも根本的な解決を志すべし、と思っていたからだ。が、意外に毎日楽しい。問題を先送りするするにもコツがいる。状況と照らし合わせ、根本的な解決が可能か、無理なら今はどういう打開策を取るのかを素早く考えて実践していく。
若い頃、「完全燃焼」できる日々が欲しくていつも悶々としていた。自分の全てを傾けられるような仕事を欲していた。今は割とそんな感じだ。
しかし、この先に成功が待っている確率は、多くて1割と言ったところだろう。努力と結果が一致するわけはない。そんなことはそもそもどうでもいい。楽しければいいのだ、人生は。

日記 2015/11/08 ハーフマラソン

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 今日、ハーフマラソン完走した。生まれて初めてのマラソン大会、知り合いと行ったので気負うこともなく、楽しく走れた。 ジョギングを始めてから数年になるが、単に「体力づくり」を目的に走っていたので、大会に出る気も、タイムを気にして走ったこともあまりなかった。でも、一度大会に出てみるとなかなか楽しいものだ。他人が設定した目標を達成し、完走した証などをもらうというのは、一人で走っているだけでは得られない達成感がある。マラソン大会が沢山開催される理由もわかる気がする。
最近は、頑張ってスタートアップだ、と製品作りしたりしているので、何事もビジネスの観点からも眺めるようにしているのだが、マラソン大会自体はほとんど収益は出ないだろう。今回参加してみて分かったが、人を多く必要としすぎるイベントだ。だが、地域に人を呼び込むので、経済効果としてはそこそこのものがありそうだ。地元のお店にも、スポンサーになってもらってるんだろうな。
そして、この「みんなと走ると楽しい」「達成感」という、人間が持つ謎の性向が、このマラソン大会という現象を成り立たせているのが、非常に興味深かった。走るだけならタダでもできるのに、人はお金を払って、遠くの大会に行くのだ。
ぼくは、すでにどこかに書いたかもしれないが、人間という動物のことを「愛すべき欠陥品」と呼んでいる。この欠陥品には、謎の仕様が多すぎる。140文字でつぶやくのも、マラソン大会に出るのも、選択肢で真ん中付近を選ぼうとしてしまうのも、9.9よりも10.0のほうがはるかにすごく思えてしまうのも。こうした謎の仕様が人間に数多くある限り、完全な人工知能が人間に変わってキャッチコピーを書く、なんて世界は来ないだろうなと思う今日この頃である(もちろん、ビッグデータを解析して、謎の仕様を機械学習させるというアプローチはあるだろうが)。

メモ 2015/09/17 帰属

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 帰属意識というものが、決定的に欠けている。
昔から、どの組織に所属しようと、自分と組織を同一視したりしたことがない。人が作った会社とかはもちろんのこと、自分が作った組織やコミュニティ、果ては家族に至るまで。
だから、「うち(の会社、コミュニティ)」と言った言い回しをほとんどした事がない。名刺交換をするときとかも、会社名を名乗る事もない。
どうしてこうなったのか、なんて理由はどうでもいい。問題は、ぼくが抱いているこの感覚が人に与える影響や、人との感覚のズレだ。
html5jというコミュニティを主宰していた事がある。でも、ぼくにとっては「今この瞬間、自分が主宰している」という事実があるのみで、コミュニティにとって自分が必要不可欠、と思った事は1度もなかった。
家族もそうである。たとえぼくが死んでも、残された人々の人生は続く。会社だってそうだ。ぼくがいなきゃ、潰れるかもしれないが、そこにいた人々の人生は普通に続いていく。読書会を主宰しているが、ぼくがいなきゃ続かないだろうが、別に読書会がなくなっても、世の中の大勢に影響はない。
ここに書いた事は別に、悲観的なつもりもない。ただそれが事実だと思うのだ。人々の集まり、これをコミュニティと呼ぼう、コミュニティというものを一つの生き物のように考えて、組織の死を嘆き悲しむ、そういう感覚がぼくにはないようだ。そういえばぼくは、人類というコミュニティが滅びてしまったとしても別に構わないと思ってる。うーん、こんな風に書くと、破滅主義者と誤解されそうだが、そうじゃない。死があるから、生が輝くと思うのだ。個人にせよ、コミュニティにせよ。死ぬその瞬間まで、精一杯生きれば、それでいいだろう?(この意見は、岡本太郎に相当影響を受けているな)
いつの間にか、帰属意識の話から、死の話になってしまった。
ただ、帰属意識はないけど、愛着はそれなりにある。家族、会社、地域、祖国。それらの死を恐れない訳でもないし、死を嘆かない訳でもない。コミュニティに入ったら、それの盛り上げには人一倍尽力する自信もある。ただ、自分がそこに必要不可欠とは思わないし、だからこそ抜けることにあまり恐れもない。それが責任感の欠如に繋がってもいるだろうし、一方で、「このコミュニティは永遠に不滅だ」と…

メモ 2015/09/14 残滓

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 私は考える。考えた先に、何かを期待しているわけでもなく。考えているこの時間に、何かの価値を見出しているわけでもなく。
ではなぜ考える?最近思うのは、考えを止めるために考えているのだ。
何の業を背負ってしまったのか、世の中の何事につけても、何事かを思い、価値を測らざるを得ぬ。
エンブレム騒動に関してはくだらないと、原発については反対だと、安保法制についてはけしからんと、安保反対デモについてはまあ頑張れと、自分の周りの由無し事についてあれが正しい、これが間違いだと。
それらが全て他人や本からの受け売りだったり、単なる好き嫌いだったり、無知ゆえの突拍子もない類推だったり、バイアスだったり、思い込みだったり、と分かってはいる。それらのノイズ、つまりは自分の思考そのものがノイズなわけだが、それらを全部廃して、世界をありのままに眺めたいと思うのに、なかなかそうもいかぬ。自動化された心の働きが勝手に働いて、何事かを思わされてしまう。
しょうがないので、更に、その自分を否認する。「お前はそう考えているかもしれないが、それはお前の無知や思い込みの賜物だ」と。時には、自分の好みに反する意見を支持してみたりもする。 そうして、頭がごちゃごちゃとして思考がはっきりと形を成さなくなったところで、思考は終了する。こうしたエポケーのあとに残るのは、何も語れなくなっている自分と、主観の残滓だ。
こんなことを繰り返して、その先に何があるのだろう。無色透明な自分だろうか。それは、何にも無関心ということか。自分の力の及ばぬところには価値判断を伴わぬ関心を抱きつつ、自分の力の及ぶところにのみ集中できるような自分になれると良いのだが。今はまだ途上も途上、ともすれば無関心、ともすれば無益な思い込みを繰り返す日々である。

メモ 2015/09/11 晴れ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 今日は久しぶりの快晴だ。 こんな日は気持ちもアガる。
などと、このブログにしては珍しく、天気の話題なぞをしてみた。というか、自分の内側以外のことを話題にすること自体、珍しいというか。
以前、このブログのことを「暗い」と言われたことがある。そもそもタイトルからして暗い、と。
他には、「宗教とかやってるんですか?」と聞かれたこともある。まあ、価値観の話ばかりしてりゃ、そうも見えるだろうな。
このブログ、何一つ大事なことは書いていないが、自分の内面をそのままさらけ出しているというところにだけは自信がある。 そのブログが暗いとか、宗教がかっているとか言われるのなら、ぼくの内面をそのまま外に出したとしたらそう見えるかも、ということなんだろう。
ぼく自身は暗いことばかり書いているつもりもないし、宗教にかぶれているわけでもない。 そもそも明るいとか暗いとか、うーん、どうでもいい。何が暗くて何が明るいのか、今となってはよくわからない。人が判断することだ。 宗教というよりは、哲学なのだと思いたいが、こう書くと哲学マンセーしているようで、またそれも違和感がある。要は、ごちゃごちゃとくだらないことを考えてるだけだ。
あ、新宿着いた。これにて終了。

メモ 2015/09/04 悟り

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- ここ最近、ある悟りを得た。
「我が人生に悟りなどなし」ということを悟ったのである。
このフレーズには、深刻な矛盾がある。悟りなどないのならば、この「悟り」すら存在しえない。つまりこのフレーズは論理的に偽である。だが、それが「悟りがない」ことを表すならば、結果としてこのフレーズは論理的に真となる。
矛盾を孕んでいるから、このフレーズにはトータルで意味がない。論理的な遊びとして、個人的に少し面白がる程度の価値しかない。それでいい。
悟りを得ず、知識を得ず、学びを得ず、気付きを得ず、ただ死の瞬間まで生き続ける。どうか、人より悟っている、勝っている、知っているなどと、二度と思い上がることのない人生でありますように。

メモ 2015/09/02 腐る

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- このブログを書こうとして、ふと、下書きのままになっている文があったので読む。苦痛である。読むに耐えない。
このブログは、その時その時思ったことを書き連ねているだけなので、時間が経って心情が変わってから、昔の文を読むと、全く共感のできない駄文に思える。
文章は、腐るのだ。
プログラムと同じだ。随分昔に書いて、ずっと動かしていないプログラムがあったとする。久しぶりに動かす時の不安と言ったら。9割9分、動かないだろうと予想して動かす羽目になる。
だが、一度一般公開した文章は、あまり腐ったと感じないのが不思議だ。というより、昔書いた自分の文章って、他人が書いたものみたい。腐るというか、他人事。 公開するまでは自分一人の持ち物だが、公開するという行為が、文章を一人歩きさせることに繋がるのだろうか。
ということで、この文章もなんの薬にもならない駄文だが、公開する。公開しなかったら、ただ下書きのまま腐らせて、あとで削除するだけだから。
ああ、またインターネットに一つゴミを増やしてしまった。

感心したコピー・フレーズ 2015/08/21

マキアージュの
「レディにしあがれ。」
語呂の良さが良い。
「しあがれ」の部分、「しやがれ」に見間違えさせるところがニクい。「レディ」と「しやがれ」の組み合わせじゃ違和感が凄まじいので、二度見させられてしまう。その効果を狙ったのと、女性向けの柔らかさを醸し出すために、漢字で「仕上がれ」とはしなかったのだろう。かなり技巧的だ。
また、「レディに」と「しあがれ」の間に句点を打たなかったのは正解であるように思う。「レディに、しあがれ。」では、ちょっと「溜め」が大きすぎる(コピーライターは迷ったのではないかと思うが)。 個人的には、「レディに しあがれ。」と、半角スペースで表現するくらいの溜めが一番心地よく思えるが、日本語のフレーズに半角スペースを混ぜるのは、現在あまり一般的ではない。
とはいえ。このコピーがあまり強い印象を残さないのも事実。マキアージュ的には、「『なんにもしてないよ』なんて、ウソ。」というコピーがメインのようなので、サブコピーとして、印象が少し弱めなのはむしろ狙い通りというところか。

メモ 2015/08/19 無知

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 最近、自分がどこまでも無知であるということをよく思う。
無知の知、というやつだ。だからと言って、残念ながらソクラテスのレベルに自分が達したというわけでもなく、ただただ自分の無知を省みる機会が増え、どこまでいってもぼくは無知なのだ、というある種の諦念を身につけたというだけである。 元々、哲学的な思考に足を踏み入れたのは、エンジニア的な好奇心が強かったからであるように思う。エンジニアリングの知識を身につける上で(というか学業全般であろうが)重要なのは、本質的な理解である。それは、理系的な面からいうとこの世を支配している法則の理解であり、文系的な面からいうと創始者や創作者の思想を理解することに他ならない。
ある時、こうした本質理解の欲求が社会そのものに向いた時から、ごちゃごちゃ考える日々が始まった。その日々がもたらしたものは何なのか、今はまだよくわからない。
ただ一つ、最近感じることであるが、もし社会や人間の本質を多少なりとも理解したところで、大したことではないということだ。この世界を動かしているのは、ぼくを含む市井の人々の日々の行動であり、それらの行動はそれぞれ専門分化された知識体系を背景とする。それらの膨大な知識と行動は、「社会と人間の本質」とやらと何らかの関連を持っているかもしれないが、だからと言って本質を理解した人間がオールマイティになんでもできる訳ではない。哲学者が万能じゃないのは、考えるまでもない(むしろ役立たず?)。
結局、社会や人間の本質を理解して、それを自分の人生に応用したいと考えたが、結局そんな応用は叶うべくもなく、日々それらの職能に従事している人々こそが知恵と経験を蓄え行動していてエライ、ということを知るだけに終っただけでなく、そもそも本質理解とやらが可能なのかどうかすら怪しい、いやむしろ人間には多分無理ということが分かってきたというのが事の顛末である。
得られたものといえば、自分には知らない事だらけであり、知らぬまま死ぬのだという事実への気づきと、ぼくの知らない事を知っている他者という存在への驚きと敬意くらいであろうか。まあそれはそれで、得たものとしては悪くない。ただ、こんだけごちゃごちゃ考えて成果がそれだけというのはコスパ悪い事この上ない。もう少し、上手に…

今日の発見 2015/08/17 メイク

「鈍い」「無知」には自信のある白石が、日々の生活で気づいたことを、ただ、メモる。 ---- スタバに来ている。 前に並んでいる2人の女性(就活中の女子大生と思われる)の、片方がトイレに行った。
その間に、もう片方の女性はちょっとだけメイク直し。手早い。パパっとルージュを整える。
トイレ中の女性が帰ってきたら、「あ、メイク直したんだ」と気づくはずだ。そこを気づかれるのは恥ずかしくないのか。ぼくの感覚だと、ちょっとしたスキに「変身」して、それを気づかれるのはちょっと気恥ずかしいのだが。人と話している時にチャック開いてるの気づいて、それをこっそり直すのですら恥ずかしい。「あ、こいつ直しやがったな」とか思われそうで。
きっと、女性同士の暗黙の了解があるのだろうな。

メモ 2015/08/18 文学的

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 先日、「まれ」というドラマの脚本について妻と話していた時に、自分の口から「脚本に粘りが足りない」という言葉が飛び出した。
ただそれだけなのだが、ぼくが「まれ」について思っていた感想をズバリと言い表したような気がして、かなり気に入ったのを覚えている。 (万人が同様の感想を抱くわけじゃないというのは重々承知しつつ)
こういう、心の中にある言語化されていない感覚を、適切な言葉で表すセンスこそが、文学的センスというのだろう。いや、「適切」では足りない。受け手の予想を超えつつ、「まさにそれしかない」という表現を発想するセンスが、文学者には必要だ。
昔、川端康成の「雪国」の書き出しを読んだ時の衝撃が忘れられない。「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」。完璧すぎる。100年たっても色褪せないとはこのことだ。一文字の無駄もない。
翻って自分はどうか。ここ数年、コピーライターを自称していろいろ言葉を弄してはいるが、まだまだだな、と感じるだけでなく、だんだん衰えを感じるようにもなってきた。言葉をひねり出すのに必要な、膨大なエネルギーが、なかなか捻出できない(これはトシのせいなどではなく、色んなことを同時並行で考えなくてはならない立場だからだ…と思いたい)。
自分の書いたコピーで、今のところ一番のお気に入りは、htmlday向けに書いた「さあ、お祭りだ。」だ。htmldayとは何かを端的に表現しつつも、人を高揚させる力がある。HTML5 Japan Cupの「日本のWebを、たぎらせろ。」は悪くないが、「たぎらせろ」を全部ひらがなにした(滾らせろ、じゃ読めないと思って)せいで、力強さが損なわれている。「タギらせろ」と、カタカナを入れれば、力強さが補われてなお良かったのに。
昨日CMを見てふと思ったが、ランドセルに「天使のはね」と名付けた人は天才だと思う。子供を持つ親の気持ちを深く理解している。このネーミングは、企業に何十億円もの利益をもたらしたことだろう。
文学的センス、衰えさせている場合ではない。だが、コピーライティングに集中できるような立場ではないのも確か。人生はなかなか難しい。
いつもながら、とっ散らかった文章だな。

メモ 2015/08/10 価値

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- ここ最近の、意味や価値について考えている思索の続き。
人間は、日々実に多くの価値判断をしながら生きている。
人間が1日に行う価値判断の回数はどれほどだろう?100?200?1000?
人間は、なぜ事物に価値を見出すのか? 価値の源泉はどこにある?
そんな根本的な問いを投げかけたとしても、「客観的に正しい」定義に辿り着ける気がさっぱりしない。価値の概念は、あまりにふわっとしすぎている。ぼくはよく知らないが、マルクスの剰余価値説だとか、ベンサムの功利主義などは、モデルとしては良いが、価値という不可思議な現象をあまりに単純化しているのではないかという予感を禁じ得ない。
そう言いつつも、自らその「過度な単純化」という(魅力的な)愚行にぼくも手を染めてみる。
価値の源泉は、最終的には本能的な快、不快に基づくのではないかと思う。そこに、後天的な学習の成果が幾重にも積み重なることで、価値判断の速度と精度を人それぞれに高めていく。例えば通貨という概念を理解すると、通貨を引き換えに様々な「快」を得られることを学び、より多くの通貨に価値を感じるようになる、といった具合だ。更に、「ダイヤモンドは高いもの」という学びのあとでは、ダイヤモンドに多くの価値を感じるようになる。
価値の高低を測るには、多くの情報を要する。例えば絵画一つ取っても、誰が描いたのか、金額に換算したらどうか、制作時期はどうか、そこに使用されている技巧、作品のテーマ、などなど、素人考えでも沢山出てくる。ましてや、例えば日本国憲法の価値を測る、としたらどうだろう。数かぎりない情報や見解を集めた末、結局価値が「ある」か「ない」か、意見が収束することはまずあるまい。
そして、価値を測る対象に付帯する情報、それを「属性」と呼ぶなら、それらの属性は全て対象物とシーニュの関係を形作る、と言って差し支えあるまい。

メモ 2015/08/08 己

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- ぼくはちっぽけな人間なので、何か新しいことを始めると、人にアピールしてしまう。 早朝ジョギングを始めた時も、哲学に傾倒し始めた時も、投資家と会社を作った時も、ライター稼業を始めた時も、いつも、そうだった。 しかしそのうち、自分の中でそれが普通になると、また極端なことに、「自分のやっていることなど、誰にでもできること」と思うようになり、全然アピールしなくなる。
ぼくはまた、バイオリズムに大きな波を持つ人間である。一年のうちで2,3ヶ月、やる気がかなり減衰する時期があって、そんな時期は睡眠時間がやたらと長くなり、仕事や義務を可能な限り避けようとする。 若い頃は、こういう時期にひどく焦りを感じて、自分を叱咤激励したものだが、この歳になると、そういう時期にジタバタしても無駄だというのがわかってきて、あきらめて大人しくしている。
またぼくは、体験したがりのバカだ。あえてここでバカという言葉を使うのは、「自分で体験しないものを、なにも理解することができない」という、いわば一つの認知的な障害を持っているからだ。 大学時代、体験だけを目的に短期バイトに精を出し、30種類くらいのバイトをしたと思う。社会人になってからも、会社を転々としまくり、エンジニアにも飽きてライターをやったり、コミュニティリーダー、コピーライターやイベント企画、営業もかじった。今はスタートアップ経営をかじり中だ。ここまで体験してやっと最近、普通の社会人レベルに、社会のいろいろなことに関心が湧いてきた。普通の人並みに、多面的なものの見方が出来るようになってきた。(と書きつつも、普通並みにできてる自信はまだ全然ない) そして、体験したがりだから、猛烈に飽きっぽい。ある程度経験すると、なんか分かったような気になってしまい、次の物事に興味が移ってしまう。
この歳になって、ようやくこうした己のクセみたいなものがわかってきた。全くもって、扱いづらい人間である。こんな人間と付き合わなければならない人々は大変だ、と同情を禁じ得ないが、こんな人間と一心同体であるぼく自身が一番大変なのである。一度しかない人生、どうにかこいつと付き合いながら、楽しく、周りの人になるべく笑顔でいてもらいつつ、生きていかなければならないのだ。
…などと書きながら、「ぼく…

メモ 2015/08/04 意味2

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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昨日「意味」というものについて考えたが、まだ足りないので続き。
意味と価値 意味と価値は、時に同じような文脈で用いられる。「意味がない」は「価値がない」と同義であることがよくある。「それ、やる意味あんの?」という問いかけは、「それ、やる価値あんの?」と言い換えても違和感がないように思う。
この理由を探るために、価値判断のプロセスについて少し想いを巡らせてみる。

「価値があるかないか」は、対象の意味を解釈していないと判断できない。100円玉と50円玉のどちらが価値が高いかは、それらの硬貨が指す意味を理解していなければならない。ここから演繹すると、意味解釈は価値判断に先立って必要とされる。まさしく、「意味がわからなければ判断のしようがない」。

だから、「意味がない」は「価値がない」と近い文脈で用いることができるのであろう。本来、価値を判断するには、意味が必要とされる。意味がないのであれば、価値の判断のしようがない。価値判断ができない場合、人は価値判断を保留せざるを得ない。その状態は、「価値がある」ことを望む人にとっては満たされるものではない。

人は、「自分の人生を価値あるものにしたい、価値あるものだと人にも思われたい」と願うからこそ、自分の人生に意味付けを求めるのではないか。
意味付け さて、「意味付け」という言葉が示す通り、意味は恣意的に設定することができる。人生の意味、プロジェクトの意味(ミッション)、会社の存在意味(意義)…などなど、事物が先行し、あとから意味を加えるという行為が実際に行われているのは、枚挙にいとまがない。

それもよく考えれば当たり前のことで、世界は実際に存在(実在)しており、出来事は実際に世界の中で絶え間なく起きているわけで、「意味を付ける」という行為に対して実在が先行するのは当然だ。

この、「意味付けは恣意的な行為である」ということに気づくと、色々なことに応用できる。例えばあるプロジェクトが失敗に終わったとする。プロジェクトメンバーは、プロジェクトに関わった時間が全て無意味だったのではないかという不安で落ち着かない気持ちになる。そこでリーダーが、「プロジェクトは失敗したが、次に繋がる多くの学びを得た。次に活かそう」と宣言したとする。すると、…

メモ 2015/08/03 意味

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ----
意味という現象には、恐ろしく多くの哲学者や言語学者が取り組んで来たであろう。ぼくはソシュールがシニフィアンとシニフィエを分けて考えたことくらいしか知らない。なので、今から論ずることは、既存の研究を一切あたることなく、意味という現象について考えた、素人の手なぐさみである。
まず、シニフィアン(記号)とシニフィエ(意味されるもの)の関係は必然的なものではない。限られた時代、共同体の中での強固な相互了解によって成り立つものである。
シニフィアンは言語であることが一般的だが、非言語、例えばジェスチャーとか、アイコンとか、擬音とか…も、特定の意味を指し示すことがある。あえてひどい例を持ち出すなら、「くぱぁ」という擬音は、一部の人々にとっては明確な意味を感じさせる。要は、「記号」であれば何でもシニフィアンになりうる。
ここで、「人生の意味」について考えてみたい。これは、「誰かの人生がシニフィアンであり、それが指し示す意味」ということになろう。固定のシニフィエを持たないシニフィアンが人生であり、「人生の意味を探す」というのは、「人生という記号が示すシニフィエ探し」であると言ってもよかろう。意味を問うた瞬間に、人生そのもの(「人生」という単語ではない)すらも記号になりうるとは!
もう一つ、「意味」と「価値」についても考えたい。この二つの単語は、似たようなコンテキストで使用されることが多い。「ぼくの人生には意味がない」というのは、「ぼくの人生には価値がない」と言っているのとほぼ変わらないように感じる。
「人生に意味がない」というフレーズを読み解くに、「人生」という記号に意味が伴わない、つまりシニフィエを伴わないシニフィアンであるということだ。ナンセンスな記号。
そうした記号は、人間の記憶に残らない。人間の記憶は、シニフィエの記憶だ。「言葉が出てこない」という現象は、「シニフィエは思い浮かんでいるのだが、そのシニフィアンたる言語を思い出せない」ということだ。意味のない記号は覚えていられない。
だから、「意味のない人生」は、人々の記憶に残らない。人はそれを嘆くのだ。その嘆きを避けるために、人生に意味を持たせたい、と多くの人は願うのだ。自分の人生を、少しでも「価値があった」と思いたいがために。

メモ 2015/07/31 反成長

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ----
先日のことだが、新潮という雑誌に、水木しげるが出征前に書いた手記というものが掲載されていたので読んでみた。戦争というほぼ逃れ得ない死を前にして、哲学や宗教に心の安住を求めようとし、しかし戦争という圧倒的なリアルを前に全てが力不足…という雰囲気が伝わるものだった。
個人的には、これが20歳に満たない青年の書いたものだということが衝撃的であった。自分がそんな歳だった時のことを思い出すと、はっきり言って白痴に等しい。片親しかいない子供が「しっかりしてる」と評されることが多いのと同様に、社会のリアルと強制的に向き合わざるを得ない状況は、人の精神的な成長を促すのであろう。
ところで、あえて今「精神的な成長」という言葉を使ったが、実はぼくは成長という言葉が嫌いである。人間の身体的な発達という意味での成長や、数字に裏打ちされた成長 - 例えば経済的な成長 - という意味でなら良いが、「精神的な」成長という意味合いが嫌いなのだ。
何故なら「精神的な成長」という言葉には、人間の精神に「目指すべき高み」があり、そこに近づいているというニュアンスが含まれている気がする。精神的な変化とは、つまり価値観の変容ということに他ならない。したがって、「精神的な成長」というフレーズは、人間の価値観に高低があるという前提を感じるのだ。
より高みに位置する価値観とはなんだろうか?社会に順応していることだろうか?度量が広いことだろうか?現実を受け入れることだろうか?品を身につけることだろうか?謙虚な人間であることか?
挨拶一つできない人間は、精神的に未熟なのだろうか?例えばそれが圧倒的な才能を持つ芸術家だったときたら? 狭量で、他人のミスを許せず、徹底的に糾弾するような人間はどうだ?例えばそれが、世界を変えるような発明を生み出す企業のCEOだったら?いい歳して、現実離れした空想ばかりしている人間はどうだ?そんな人間が、もしかすると世界的に大ヒットするファンタジー小説を書くのかもしれないではないか。下品な人間はどうだ?世界的に有名なある音楽家は、スカトロネタが好きだったことでも有名らしいが。傲慢な人間はどうだ?歴史に名を残した人物は、もしかすると傲慢な人の方が多いのではないか?
だからぼくは、精神に価値の高低があるとは…

メモ 2015/07/23 道徳

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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道徳を自分なりに定義すると、「善悪を測る価値観」である。そして、もちろん善悪の判断は個人の行動を縛る物であり、自由という観点から見れば一つの抑圧である。
価値観、または価値ということについては、以前に何度か述べている通り、人間が創造した、人間の認識にしか存在しない、相対的な概念である。
つまりぼくは、道徳とは極めて相対的なものだと考える。時代、国、地域、家庭などにより、道徳の基準は様々だろう。人を殺してはいけない、という基本的な道徳的価値観ですら、戦場に場所を移すだけで、全く通用しないのだ。
「道徳が実在しない」と結論付けたあとは、個人的に、モラルを保つのに苦労した。自分の中に芽生える良心の声が、なんら客観的な根拠を持たない、単なる幻聴に過ぎないとしか思えなくなってしまったのだ。そして、道徳の枷を外したならば、そこには確かに広大な自由が広がっていた。ニーチェが目指した自由はまさにこれであろう。
ただ、その自由を謳歌するためには、社会との軋轢が避けられない。モラルは幻想だと独りごちてみても、明文化された法や暗黙の了解という形で、社会の構成員を縛る枷として強力に機能しているのは間違いない。既成概念としての道徳に挑戦し、戦いを余儀なくされてしまった人々の例には事欠かない。古くはニーチェがそうだし、最近でもぱっと思いつくのは、「猥褻」という定義に挑戦しているろくでなし子さん、「人生一度、不倫をしましょう」という強烈なコピーで不倫を商用化したアシュレイ・マディソンが、深刻なハッキング被害にあったり、といった具合だ。
ともあれ、「なんらかの真理が後ろ盾になっているはず」と盲目的に受け入れていた道徳という価値観は、実は「特定の共同体における特定の時点での共同了解」にしかその根源を見出せず、自分の中では受け入れがたいものとなってしまった。社会に自分を順応させるために仕方なく従うべきもので、自由に枷をはめる物としか感じられなくなってしまったのである。
こうした状態は、本当に最近まで続いていたのだけれど、あるとき自分の中で急に道徳との折り合いが付く瞬間があった。確かに、道徳とは客観的に実在するものではあり得ない。実在はないが存在はある、という観点に立ったとしても、依然として個人の自由…

メモ 2015/07/13 価値

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また、価値ということについて書く。
ぼくは30を過ぎてからの数年で、何度も何度も価値観の転換を強いられ、しまいには「価値」というものの存在をすら疑うようになった。というか、以前「私的存在論」というメモに記したように、「価値」という概念は人間の心の中にしか存在しない(そしてそれがつまり「存在する」ということでもある)と考えている。
価値とは極めて人間的で、相対的な概念だ。ある人にとって高い価値を持つものが、ある人にとってはなんの価値も持たなかったりする。「マニアにとっては非常に価値が高い」とされるものは、マニアでない人にとってはなんの価値もなかったり、ISが破壊する歴史的建造物は、多くの人々がその価値を高く見積もる中、ISにとってはなんの価値もなかったりする。
価値は人間(の心)が作り出すものである、と考えると、世の中の色んな事象に説明がつく。例えばマーケティングという活動は、「消費者に対し、自社製品の(経済的)価値を訴求していく」行為だと言って差し支えないと思うが、ここで言う「価値を訴求」というのは、具体的にどういうことなのか。価値は人間の心が生み出す存在であり、人によって価値の受け止め方が異なるとしたら。「市場を生み出す」という行為は「価値がある、と感じるよう人の心に働きかける」ということになる。要は教化だとか洗脳だとか、そういう類の行為だ(そして、別にそれを悪いとは思わない)。「市場を開拓する」とは、「価値を感じる人の数を増やす」ということになろう。「競合に勝つ」というのは「他の製品よりも価値があると感じさせる」ことであり、そもそも市場とは、「似たような価値を提供する製品群とその顧客」、市場規模とは「顧客が感じる価値の総和を貨幣価値に換算したもの」、相場とは「価値を貨幣価値に換算する際、顧客が納得する係数」などと言い表せるだろう。
「怪しいツボ」に大金を払った人が特異に見えるのは、その事物の「世間一般で妥当と考えられる経済的価値」とはかけ離れた金額を支払ってしまっている上、本人がそれをおかしいと思っていないように見えるからだ。ただ本人にとっては、それがどんな理由であれ、払った金額に見合う価値を有していると感じられているかもしれないのだ。
ぼくの知っている人物は、「安全こそ…

メモ 2015/07/11 関心

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関心という概念に、強い関心がある。
コミュニティ運営やメディア運営、イベント開催をよくやっていたからだ。人々の関心がどこにあるのか、というところをいつも気にしている。
それは、自分にもあてはまる。自分の関心はどこにあるのか。ニュースアプリを使っている時でも、自分はどれを読み、どれを読まないのかを気にしている。たまに、自分の「関心のなさ」 に抗って、スルーしようとした見出しをタップすることもある。そしてその内容に関心が新たに芽生えることもあれば、芽生えないこともある。やっぱ興味わかない、といって閉じてしまうことも多々ある。
関心は、確かハイデガーの「存在と時間」においても中心的な概念だったはずだ。ぼくが読んだ翻訳では確か「気遣い」と訳されていた気がするが。ただ、「存在と時間」は途中で投げ出してしまっていて、全くわかっていない状態なので、とりあえず「哲学や存在論においても関心という概念が重視されてる」というだけの前提で、適当に思うところを書いてみる。
人が自分以外の存在を認識するためには、まず関心を向けることが必要である。関心のないものは、人間にとって(ほとんど)存在しないも同じである。
関心を向けるには、対象物が言語化されている必要がある。言語化とはつまりカテゴリー化だ。他の事物と区別し、文節することが言語の持つ重要な役割である。 関心を向け始めた最初の頃は、非常に荒いカテゴリーしか認識できないが、関心を向け続けて知識を深めていくと、そのうち細かいカテゴリーの存在を認識し、理解するようになる。そのうち、まだカテゴライズされていない概念を発見し、自分が名付け親になることもあるかもしれない。これが学問するということだ。
例えばぼくは最近、自動車に少し興味が湧き始めた。最初はクルマを見ても「クルマだ」としか思わなかったが、興味が高まるに連れて、まずは自動車のメーカーが気になりだした。エンブレムからメーカーの名前を思い出すという作業が楽しくなってきているところだ。このまま関心を高め続ければ、車種や部品などにも詳しくなっていくかもしれない。こうして、関心を持ち続けることで、細かいカテゴリーの知識を獲得していく。
以上、結論なし。

メモ 2015/07/10 価値観

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「価値観を人に押し付けない」
ただこの一言を実践せんがために、もう何年、価値ということについて考えているのだろうか。
「自分の価値観は絶対ではない」と気づいたのは確か4,5年前になる。30過ぎてようやく気づいたという、自慢にもならないどころか恥ずかしい話である。
その頃世間はソーシャルゲームがブーム。ただぼくはそんな狂騒が嫌いで、自分がそれを嫌いであることを公言して憚らなかった。 そんな折、とても好感の持てる若者に出会い、何かにつけておせっかいを焼いていた。その彼と食事に行ったときに初めて聞いたのが、彼は「ソーシャルゲームを心から好きである」ということだった。当時のぼくにとっては、「そんな人がいるのか」と驚くと同時に、自分が好感を持っている人間の口から、自分の当時の価値観と全く真逆の言葉が出たことに衝撃を受けた。さらに彼の言葉を聞くと、本当に、純粋にソーシャルゲームを好きであることが伝わってきて、その言葉を聞いているうちに、大してやったこともないくせにソーシャルゲームを嫌いだとか批判している自分こそ、矮小な人間であると気づいたのだった。
それ以来、自分の価値観というものに常に疑問を抱き続け、少なくとも人にそれを押し付けないよう、常日頃から心がけているつもりだ。しかし社会生活を営む上で、どうしても自分の価値観を人に伝えなくてはならなかったり、軽口でつい出てしまう…といったことも、よくある。そうして自分の価値観を人に晒してしまったあとは常に、自分の価値観の押し付けをしてしまったのではないか、とんでもない間違いを犯したのではないかといつも不安や後悔に駆られる。だが、自分の価値観を人に晒すという行為をゼロにすることはおそらく不可能で、そういう時はしょうがなく、控えめに、「個人的には」という枕詞を必ず欠かさぬようにしながら、自分の考えを開示するほかない。
そもそも価値という概念が極めて人間的で、相対的なものだから、自分の中に一方的なものの見方が発生しているとすれば、必ずそれは不完全で、必ず反対できる余地を含んでおり、必ず誤っているのだ。価値観を人に押し付けることへの恐怖感は、そうした誤りを人に伝えてしまうことへの恐怖だったり、自分と違う価値観を持つ人々を傷つけてしまわないか、不快な思いを…

メモ 2015/07/08 告白

このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
恥ずかしい告白をすると、最近綴っているような抽象的な思索を今より活発に行っていた頃や、哲学の本をよく読んでいた頃、自分が高尚で価値の高いことをしている気になっていた。他人が得ていない多くの気付きを得ている気がして、自分がなんかすごい知識人になろうとしているような気がしてた。

今では、そんなふうに勘違いしていた自分が恥ずかしい。穴があったら入りたい。
自分がその時分に何かを考え、そこから何かを得ていたのだとすれば、同じ時分に同じように他の人々は何かを考え何かを得ていたわけで、そこに価値の高低などない。
例えばある人はゲームの攻略法を必死に考えていたかも知れないし、競馬の予想をしていたかもしれないし、女性を口説く方法を考えていたかもしれないし、ホモの妄想をしていたかも知れないし、お気に入りの嬢がいつ出勤するのかを頻繁にチェックしていたかもしれないし、ゲスい見出しを必死に考えていたかもしれない。これらに費やしていた時間と、ぼくが哲学とか思想にかぶれていた時間の間に、価値の高低などない。いやむしろ、自分が思い上がっていたことを反省する気持ちもあり、この世で最もくだらない時間だったとさえ思っている。
で、この先に述べるはずの結論は、すでに書いてしまった。読者不在の意識が、文章をいい加減にさせる。すなわち、人の考えることに価値の高低などないという話だ。職業に貴賎なしとか、天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずとか、似たようなことを表すフレーズは他にもあるが、まあそんなようなことを、思想や表現にも広げて考えている感じだ。 そして「価値の高低などない」と述べた返す刀でいきなり矛盾したことを言うと、自分の考えや活動が価値の高いなどと思い上がっている人間の考えこそが、最も価値が低いと思っている。下手の考え休むに似たりである。
で、ぼくはなぜいまだにこんなことをグダグダ考えているのかというと、ただただこのくだらない思索活動が好きだからとしか言いようがない。下手の横好きである。人間、いくらくだらなかろうと、好きなことをやっているのが一番よね。

メモ 2015/07/07 私的存在論

読者不在で自己満足の塊のような備忘録を書く。ここはぼくにとってそういう場所だ。
一時期哲学に凝っていた頃に、ハイデガーの「存在と時間」の序文を読んで以来、ぼくは「存在とは何か」という問いに関心を抱くようになった。とはいえ、「存在と時間」はあまりに難解で、また、いくつか重要な示唆はあるもののぼくが関心を抱いているポイントとはいささかズレているようにも思えたので、途中で投げ出したままだ。
それ以来、たまに存在への問いを思い出しては少し考え、そして忘れ、また思い出し…ということを繰り返してきた。そろそろ、一度まとめてもいい時期だ。
ない いつだったか、それまで存在を疑いもしなかった様々なものが、実は「ない」ことに気付いたとき、大きな衝撃を受けたのを覚えている。 今となっては、なぜそれまでその存在を確かなものと考えていたのか、さっぱり思い出せないほどだ。 例えば紙幣の価値。紙幣など、北斗の拳で「今じゃケツを拭く紙にもなりゃしない」と揶揄されているがごとく、ただの紙でしかないと頭では理解しながらも、そこに確固たる価値など存在しないと、真から思えたのは前述の「気付き」からであった。
他にも例えば国境。例えば人権。例えば道徳。例えば正義。枚挙に限りがないが、これらの存在が確固たるものとして感じられていた時分が確かにあり、そしてその時期は過ぎてしまった。あると思っていた多くのものが、実はなかった。色即是空。
この気付き以降、ご想像のとおりぼくは相対主義的になり、少しニヒリスティックに、少し享楽的に、少しアナーキーに、少しインモラルになった。
ある ただ、少しだけ話には続きがある。存在に対して、一番最近のぼくの気付きは、前述の様々なもの、例えば人権だの道徳だの、がやはり「ある」ということだ。
ただ、「ある」の意味が以前とは少し違う。人権だの道徳だの国境だの正義だの価値だの意味だの、こういうものは、今の時代では大多数の人々が「ある」と考えている。こうした人々の、「存在を信ずる気持ち」こそが、前述の概念にとっての存在の根拠となっている。
もちろん、人々の「(存在への)信仰」だけが拠り所なので、その存在は非常に頼りない。地球規模の戦争が起こって、人々の価値観がリセットされてしまえば、すべてその根拠を失うようなものばかりだ。だが、それでいいのだ。そんな揺蕩うような存在のあり方を人々はともかく受け入れ、「ある」とい…

メモ 2015/07/07 世代

昨日、祖母が亡くなった。今日は急遽富山に飛ぶことになった。
ぼくは年を取る。同じように、他の人も年を取る。亡くなる人も出てくる。ぼくが日々何かを学ぶように、他の人も学んでいる。ぼくが日々何かを忘れるように、他の人も忘れていく。ぼくが変わるように、他の人も変わる。ぼくはなに一つ特別ではなく、同じ時代の人々と同じように生きている。皆、いずれ死ぬ。
最近、こうした「同時代に生きてる」大多数の人々に、妙なシンパシーを感じることがある。 別に、人類皆兄弟とか皆平等とか、宇宙船地球号とか、そんな博愛主義に目覚めた訳ではない。ただただ、自分がなに一つ特別なところなどなく、同じ時代に生きる「その他大勢」でしかないこと、それでいいと受け入れられるようになったこと、そして実は誰もが「その他大勢」なのだということを思うようになり、大統領だろうとホームレスだろうと、誰もが同じ時代をやっとこ生きてるに過ぎない、という当たり前の気づきが、妙な仲間意識をたまに呼び起こしているに過ぎぬ。「みな自分と同じく、なんとかかんとか生きているのだ」という思いが、会ったこともない人にすら妙な親しみを感じさせているのだ。
昔ならこんな感覚は、頭のおかしな博愛主義か、イっちゃったリベラリズムとでも捉えていたかもしれぬ。そうではない。自分の中では、単に、他者を捉える新たな見方を身につけたというだけのことである。別にこの見方が自分の中で支配的になるでもなく、単に一つ見方を増やしただけ。このように、引き出しがすこしずつ増えていくのは、年を取ることの妙味だと感じる。悪くない。

メモ 2015/07/06 自由について

一つ前の記事で宣言したとおり、読者不在でつまらない、めちゃくちゃな文章を書くのが、このブログの目的である。
手始めに何を書こうか。
ここ数年、ずっとぼくの心を捉えているテーマに「自由」がある。ぼくが人生をかけて挑んでいるのは、自由を獲得するため、そして自由に創作活動をするためだということがわかってきたからだ。
で、ここ最近の政治の話題を見るにつけ、自由の意味に思いを馳せずにはいられない。 思うところは数多くあるが、まずは自民党の若手議員や百田尚樹さんが出席したという勉強会で、「マスコミを懲らしめろ」だとか「沖縄の新聞を潰せ」だとかの発言が出たことに対して。
ぼくは、事の是非にはあまり興味がない。もちろん、自由大好きな身からすると看過できない発言なのだが、それが「正しい」か「正しくない」かを論じるつもりはないし、そんな知識もないし立場でもないし、他人を断罪するということに興味もない。人は人だ。
ただ、このことが世の中に投げかけた問いは非常に興味深いものだったと思う。すなわち、「他人の自由を侵害する発言を行う自由はあるか」というとのだ。 渦中の彼らの発言は、「マスコミ」に対する(報道、言論の)自由を侵害するものだったと言っても良かろう。こうした発言を行うことを、言論の自由は保証するのだろうか?
まあ、こんな問題は今に始まった事ではない。どこで読んだか忘れたが、「民主主義を否定するような言論を、民主主義は許容すべきか」という議論は古くからあるそうだし、今回の件もまさにそれと同カテゴリー、変奏ですらない。先行する研究も数多くあることだろう。
それと知りつつ、そして自分の無知を知りつつ、思うところを書いてみる。個人的には、「どんな言論、表現であっても、まずは自由が保証されるべきだ」と考える。それが民主主義を否定するものであっても、他者の人権を踏みにじるようなものであっても、虚偽であっても、極めて偏向していようともだ。
そうした言論、表現に対して評価を行うのは、その時代の人間たちによる、これまた言論(報道)といった手段であるべきで、そこに権力の介入、例えば法律などは必要ない。他者の自由を著しく毀損するような言論、表現には、相応のリスクを伴う。時に社会全体から総叩きにあうようなこともあるだろう。他者の自由を軽んじたことへの制裁は、そうした形で与えられる。
自由を侵害するような言論に対して、「そうした…

メモ 2015/07/06 再始動

ずっと途絶えてたこのブログ、再開しようかと思う。
以前は、日々のよしなしごとを書き留めることで、流れるように過ぎていってしまう日々を少しでも記憶に留めたいと思い、書き続けていた。そのため、その内容は赤裸々で、ほぼ裸のぼくのさらけ出しており、それはそれで良いとは思うものの、大きな成長を目指す起業家となった今となっては、内容に問題があったと言わざるを得ない。だから、一旦全部消した。
ただ、日々の考えを表に出す場が全くないというのは、それはそれで「溜まる」ものがある。また、言葉は日々使っていないと、いざという時に出てこない。普段の生活を行っている中で、使わないようなボキャブラリーは特にそうだ。
だから今度は、内容を赤裸々にしすぎることなく、人に話すようなことでもない考えを書き留めておく場として、ここを使おうと思う。つまり、いつ誰に読まれても構わないような無難な内容で、しかも内省的な、「つまらない」内容を書いていこうということだ。 これでも執筆を職業にしていた時期もあるし、文章表現にはある程度こだわりがあるつもりだが、ここでは読者不在を心がけて、前後関係も、合理性も気にせず、めちゃくちゃを書いていこうと思う。