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留め

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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日々に忙殺され、感じたことや思ったことが、すぐに流されていってしまう。
昔はそれでいいと思っていた。そんな中でも、残ったものが本当に大事なものなのだと。

今もその思いはそれほど変わるところでもないのだが、それだと結局、日々の思考の大半を占める事柄 - 多くは仕事に起因する論理的なこと - ばかりが記憶に残り、感情的なこと、些細なこと、形を成していない思いなどがどんどん忘れ去られてしまう。

そうしたよしなしごとを書き留めておく時間も、今は大事なのだと思うようになった。そんなことに時間を使うのを無駄に近く思う自分もいる、その一方で。

一度書き留めておくことで、些細なことや感情的なことを一度は記憶から呼び覚まし、反芻する。それが「自分」というとりとめもない、ふわふわしたものに少しずつ影響していく。今ではそれを疑うものではない。

なので、ここでは今この瞬間に思い出し、感じていることを率直に書く。論理もなく。恥も外聞もなく。見栄もなく。照れもなく。矛盾も恐れず。後の心変わりも恐れず。

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愛は大事だ。それも、見返りを求めない愛が。キリストが「無償の愛」を説いたのも、今この瞬間ならわかる。

人を愛おしく思う気持ち、そこから相手を大切にしようと思う気持ちが生まれ、とことん相手の立場に立とうという気持ちにつながる。そうして得られるコミュニケーションは非常に良質で、他者と心が繋がった感覚は何ものにも代えがたい幸福感をもたらす。

ここで見返りを求めてしまうと、エゴが生じる。自分の愛情に応えてほしい、という欲望が生まれる。それはつまり、他者が自分の意に沿うことを望むことだ。そして、絶対に他者は自分の意に沿う存在になったりはしない。だから苦しみが生まれる。怒りが生まれる。意志のすれ違いが生まれ、幸福から遠ざかってしまう。

そういうことなのだ。

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以前つらかったことを思い出すと、最近なぜか微笑んでやまない。その当時は、つらい、死にたい、身を引きちぎられるような思いを感じていた出来事の数々。

微笑めるということは、きっと昇華したんだろう。それらは自分の内面に取り込まれて、ぼくの一部となったのだろう。

でも、なぜ微笑みが漏れるのかがわからない。そうした心の働き、自分の内面に潜む不思…
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創造2

創造に伴うメタ的な問題に関する考察の続き。創造における最も困難で、創発的な行為の一つにネーミングがあり、名と体は相互に影響し合いながら、創造物のクオリティが向上していく。ここで、名と体にメタな関係は成り立つのか?コピーライティングしているときは、名を生み出す行為がメタ的に上位に感じられているのだが、一度名が決まると、今度はその名をどう解釈するかという、体が名に対してメタ的に上位に振る舞い始める(ように見える)。この現象をどう説明するか?すぐさま答えが出る問題でもなさそうなので、思いつくままに寄り道しながら考えよう。一つ気づいたこととしては、名と体は決して同じ情報量を有してはいないということだ。名を生み出す際、何を考えるかというと、体のすべてを表したくとも短い言葉では表せないので、最も特徴を捉え、最も人の心に響き、記憶に残る名前を選びとろうとする。言ってみればこれは情報の不可逆圧縮だ。GEBで示されていた例の多くは、単純なインタープリターであり、情報量に違いがなかったように思う。遺伝暗号を解釈するリボソーム然り、ゲーデル数然り。不可逆に圧縮され、情報の多くが失われるからこそ、様々な解釈が可能になるという現象と、メタ的な問題との関係はどうなっているのだろう?また、忘れないうちに書いておくと、そもそも創造という観点からメタについて語ろうと思った動機は2つある。
1つは、ぼくがこの思索を通じて、創造的行為をよりうまく行えるようになりたいことを
もう1つは、創造という行為が、「メタ情報の生成、操作」を伴っているように思うからだ。メタ情報を自在に生み出し操ること、これこそが創造的行為の本質であり、人間にしか成しえないことのように思える(AIに人間存在を脅かされている今、この仮定もいささか心もとないが)。

創造

人間という存在を特徴づけているものは、創造という行為であろう。ぼくも、創造という行為には特に思い入れがある。この一度きりの人生において、一つでも多くのものを生み出していくことをミッションと考えているからだ。さて、最近考えているメタ的な問題においても、創造という行為が非常に特異的であることに気づいた。いくつもの創造をしてきた身だからわかるが、創造における中心的な行為は名を生み出すことである。ソシュールの、シニフィアンとシニフィエの構図で説明できるとおり、言語とそれが指すものの関係は恣意的なものである。名を生み出すとき、先に「指すもの」があって、それを表す名を生み出すこともあれば、先に名があって、それが指すものを後付けすることもある。多くの場合、指示するものとされるものは、名と体は、行ったり来たりしながら物事を形作っていく。ただ、名は一度決まってしまうとほぼ変えられない。名前を変えるということは、違うものになってしまうことだ、と人間は感じる。これはよく考えると面白い。名とは、体を指し示すだけの機能を持つ記号のはずである。なのに、体を変えずに名が変わるだけで、人は同一視ができなくなってしまうのである。更に面白いことがある。同じ名前でイベントを何度もやっていたりすると、名を変えずに内容をチューニングしていくことはよくある。時に大きな変更を、名前だけ同じで中身を総取り替えなんてこともある。そうしたときに決まって行うのは、「○○とは何か」(○○には名前が入る)を問うことだ。メタレベルを呼び起こすキーワード「とは何か」がここで出現するわけである。創造的行為を行っていると、名前はメタレベルで言うと最上位に位置するものであると感じることが多い。名は体を表すの言葉通り、名は現象すべての最上位に位置して、その現象とそうでないものを分かつ役割を果たすからだ。しかし、存在している名に対して「とは何か」を問うことは、「その名をどう解釈するか」という、名に対して上位のメタレベルを発生させていることになる。(前回から試みている、「メタレベルとは意味の階層である」の仮説に基づけば)シニフィアンとシニフィエは、メタレベル的にどちらが上でどちらが下なのか?

インタープリター

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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メタとは何か、についてまだまだ考えている。とりあえず今のところは、メタレベルとは「意味の階層」ではないかと仮定することにした。しばらくこの仮定のもとに考えを巡らせてみる。なぜGEBがあれほど様々な話題を取り扱ったか?それは、「解釈する」という行為が至るところにあるからだ。それこそ、細胞内のリボソームにもDNAの塩基配列を解釈し、タンパク質合成を行う機能がある。この「解釈して実行する」というインタープリター的な機能が、下位レベルの事象に意味的な上位階層を作り上げ、メタレベルを構成する。しかし、「解釈する」という現象に知性を感じてしまうのはなぜだろう?リボソームに知性を感じる。タンパク質合成システムをハックするT4ファージにも、途方もない知性を感じる。意味を扱う、ということが知性の重要なファクターであることは間違いなく、それはあまねく生物が備えているものであるのかもしれない。知性は万物に宿る。

メタとは何か

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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メタとは何か、という問いに、ここ数週間取り組んでいる。もちろんこれは、ゲーデル、エッシャー、バッハ(GEB)の影響であるが、今取り組んでいる様々な問題においても、メタという概念を正確に掴んでおくことが有用だと考えるからである。まずは直感を用いて、いくつか答えに近そうな概念を提示してみる。メタとは恐らく、人間の思考にのみ存在するものだ。GEBでは自然科学の例を数多く提示して、メタ的な分析とその破れ(もつれ)について検討しているが、そもそも自然が自然に成していることを人間的な思考様式で捉えることそのものが、メタ的な問題を見せかけで生じさせているように思える。自然は、自身に何の矛盾も感じてはいないはずだ。ではなぜ、思考はメタ的な問題を生じさせてしまうのか?そもそも、なぜメタレベルの階層構造として物事を捉えてしまうのか?おそらくそれは言語によるものだろう。まずは具体的な現象が言語で示されるようになる。例えば「人間」「芸術」「スポーツ」「細胞」などだ。それらの単語に対して、人間の思考は「とは何か」と問うことができる。「とは何か」は、メタレベルの階層を呼び起こすキーワードだ。この問いに対しては、様々なアプローチで答えを探ることになる。例えば「人間とは何か」と言う問いは、極めて哲学的な問いとして受け止められ、百花繚乱の答えを呼び起こしそうである。一方「細胞とは何か」とは、科学的なアプローチを引き起こしそうである。微細な観察により、多数の生物の細胞の内部構造を探るなどして、多くの生物の細胞の共通点を探り、「細胞とそうでないもの」の境界を探ろうとするだろう。つまり「とは何か」という問いは、その言葉が指すものとそうでないものに境界線を引こうという試みに他ならない。それはすなわち、言葉の意味を明確化し、厳密化しようとする行為だ。その行為には、まずその言葉が指すものを「細かく観察する」という作業と「列挙する」という作業が不可欠である。曖昧模糊としたままでは、境界線を引くことはできない。だから徹底的に観察し、言語化する。そして、その言葉が指すものとそうでないものの間に境界線を引くには、似たものを寄せ集めて、その共通点を抽出し、その共通点の有無で集合を分けることになる。この「分ける」と「共…

赦し

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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赦しという行為が、人の思考に与える影響に想いを馳せている。我々は容易に自分を赦さないように考えて生きている。駄目な自分を赦してばかりではろくな人生を歩めないと、脳に刻まれているからだ。だから実は、自分で自分に適切な赦しを与えるというのは、とても難しいことだ。自分を甘やかすのではなく、肯定する。これは、責任感が強く、経験から学ぼうとする態度が強く、他者ではなく自分を変えるという態度が身についている人ほど、難しい。そして、大人は誰もがそうした態度(変わるべきは自分)を身につけようと努力する。だから、自分を赦すのはどんどん困難になる。自分をうまく赦せないとどうなるか?本来感じて然るべき負の感情を抑え込んでしまうのだ。怒る。悲しむ。憎む。恨む。妬む。ぼくらはそんな感情を人に抱くことに罪深さを覚えるようになってしまっている。だから、そうした感情が芽生えると、抑え込み、捻じ曲げ、忘れようとする。そうして抑え込んだ感情は、長い期間、下手すると死ぬ間際まで、その人を知らずに苛む可能性だってある。これではいけない。現実はいつだって、そのまま受け入れるべきなのだ。自分が負の感情を抱いてしまうことすらも。まずは受け入れて、負の感情一色になりそうな中にも、やはりそこまで染まりきれない自分を発見する。そんな自分を少し好ましく、愛おしくさえ思う。そうやって、複数の自分を融け合わせ、和解させ、時間をかけて統合していく。そうあるべきなのだ。正直に言うとぼくは、「変えるべきは自分」という思考にこだわり、何かあるとすぐに思考様式や行動の劇的な変化を自分に求める人間だった。人間、いつでもそんなにうまく行くもんじゃない。変化には、ときに時間と優しさが必要だ。そんなことをこの年になってようやく学ぼうとしている。そして、自分を赦すのが下手なたくさんの人々に、「まずはぼくがあなたを肯定する」という人間になりたい。ぼくは生来「優しさ」という機能が欠けている。それは自覚している。ぼくは欠陥人間だ。
そんなぼくが傷付けたたくさんの人々への罪滅ぼしのためにも。こんなぼくを赦してくれるたくさんの人々への感謝を込めて。

不確実性

見積りという作業はなんでこんなに難しいのか。

不確実性の高い仕事と低い仕事。
期限優先か、クオリティ優先か(この文言気に食わないな。あとで再検討する)。

これでマトリックスを作れそうだ。

a. 不確実性が高くて、期限優先…これは失敗の可能性が高い
b. 不確実性が高くて、クオリティ優先…これは、終了時期が見積もれない
c. 不確実性が低くて、期限優先…見積りを行って分割、トリアージが可能
d. 不確実性が低くて、クオリティ優先…見積りを行って分割、トリアージが可能

経営者をしていると、どうしても常に期限を優先したくなる。ただこれは、cならいいがaは失敗する。
エンジニアをしていると、どうしてもクオリティを優先したくなる。そうするとbに陥るし、aの場合経営者と衝突する。

更に、不確実性の低い仕事はどんどん自動化していきたい。