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投稿

つなぐ

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ぼくの人生の主要なテーマである「生み出す」ことと「つなぐ」こと、この2つにどんな関係があるのだろう、とふと考えた。1つ前に書いた文章で、ぼくのしていることが「1人でも多くの人生を花開かせること」と接続されたことが、この問いを生み出したようだ。ぼくは誰か他者と繋がって、何かを生み出そうとする。それはなぜか。ぼく1人では生み出せるものに限りがあるからだ。いや、もっと厳密に言おう。激しい生みの苦しみを乗り越えてまで、生み出したいと思えるものが、ぼく1人では限られてしまうからだ。生みの苦しみは、叶えたい願望の大きさに比例する。大きな願望を叶えようとすれば、それはそれだけ大きな生みの苦しみを味わうことになる。その苦しみを乗り越えられるかどうかは、自分がそれをどれほど強く望んでいるか次第だ。それほどの強い願望を、自分が関心を向けるすべてのものに対して抱くことはなかなか難しい。それまでの人生で、何に時間を費やしてきたかが、想いの深さには重要だからだ。だからぼくは、そうした思いを持つ人々と繋がって、彼らの想いをかたちにする手伝いをすることで、大きな価値のある1を生み出したいのだろう。ほら、「繋がる」と「生み出す」がつながった。おそらく、創造という行為は1人ではできないのだ。創造は、必ず他者を必要とする。一緒に作る人、という意味の他者だけではない。1人のアーティストであっても、その作品を見る他者が必要だ。創造という行為は、常に他者の存在を前提としている。だから、創造には繋がりが不可欠なのだ。だから、ぼくは繋がりを作るのだ。
最近の投稿

後半

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、知り合いの起業話に付き合っていて、1つ気付いたことがある。ぼくはコンセプトメイキングの手伝いをしているのだが、結局そこでやっているのは、相手のやりたいことやなりたい姿を具現化するお手伝いであるということ。そして、その過程でコピーライティングを行うのだが、それは相手のやりたいことやなりたい姿を言語化するということである。つまり気付いたことというのはこうだ。
ぼくがコピーライティングしているのは、人の人生そのものだ。これが最近、いろんな人に肩書を贈呈してたり、起業するにあたって、その人のやりたいことをヒアリングすることを重視していた理由だった。他人の人生をコピーライティングするなんて、これほどコピーライター冥利に尽きることはない。そして、これほど重要なこともない。ぼくは、「若い頃こんな人に出会いたかった」と思える人になりたいのかもしれない。そうすれば、ぼくの人生はより早く花開いていたかもしれない(ぼく自身の人生は未だ花開いていないが)。0から1を1つでも多く生み出し、1人でも多くの人生を花開かせる。ぼくの人生のミッションに、後半部分のフレーズが、今日書き加わった。

心を開く

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、とても嬉しい変化がある。人が、心を開いてくれがちなのだ。普通だったら初対面の人間には打ち明けなそうなぶっちゃけ話を聞かせてもらえることが多い。そのことに気付いたらつい嬉しくて調子に乗ってしまいそうになるが、一方でそれを強く諌める自分がいる。なぜそこまで強く諌めるのか、と不思議になるくらいに、心の中でブレーキがかかる。その理由を探っているうち、人に心を開いてもらうための「4つのK」を編み出したので、合わせて述べておく。その「4つのK」とは次のようなものだ。・敬意
・肯定
・関心
・開示相手に心から敬意を払うこと。どんな人にも敬意を払うようにするには、余計な価値観を投げ捨て、自分の価値への執着を投げ捨て、相手の長所を尊敬し、短所を愛する姿勢が重要である。肯定すること。あらゆることを無条件で肯定するには、特定の価値観になるべく与しないようにすることが重要だ。関心を抱くこと。好奇心を持つことが重要だ。知らないことに触れ合うことを喜ぶのだ。自ら開示すること。自分の弱みや恥を積極的に開示していく。人間には返報性がある。自分が開示した程度に合わせて、相手も開示してくれるのだ。これらのKを根底で支えているのが、1つ目のKである「敬意」である。 敬意を抱いた相手には、肯定することも、関心を抱くことも、開示することも容易いからだ。そして、この敬意を万人に払える存在でいたいからこそ、ぼくは自分の驕りを諌めていたのである。驕るということは、自分に特別な価値があることを望むことである。「自分に価値がある」などと考えた瞬間、人と自分の価値を比較する思考が生まれてしまい、人に対して純粋な敬意を払いにくくなるからだ。「自分には価値などいらない」「無価値な人生で構わない」という健全な開き直りが、人に純粋な敬意を抱く上で重要と考えるのである。

不確実

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、不確実性のマネジメントに関心が強くある。不確実なものを確実にすると言う過程が、創作活動のすべてだと思うようになったからだ。しかも、一人での作業にも、チームでの作業にも当てはまる汎用性がある。不確実性を下げるのに必要なのは、物事をどんどん定めていくことだ。何を作るか、なぜ作るかすら定まっていない状態から、大小様々な意思決定を経て、全てが定まり人の手で触れる状態まで落とし込むのが、創造というプロセスだ。ここで、「意思決定」の話題が出たが、これは「メタとは規則である」「規則とは意思決定の産物である」という、ぼくが最近関心を抱いている事柄に通ずる。…と、一足飛びに結論めいたものを導き出してこの文章を終わらせることもできるのだが、ふとした思いつきで、不確実性について少し違う角度から考えてみたい。というのは、「物事をどんどん定めていく」つまり確定させていくというところから、逆に「不確実≒不確定」という図式が思い浮かび、更には「不確定性原理」まで連想したことから、少し知識遊びをしたくなったのだ。20世紀初頭、科学上3つの発見が人々の価値観を大きく変えた。相対性理論、不確定性原理、不完全性定理である。この3つの原理は、巨視的現象にも、ミクロな現象にも、論理体系にも、どこにも一切「絶対」「確定」「完全」「無矛盾」はあり得ないことを示し、絶対なるものへの信仰を還付なきまでに叩き壊した。ぼくがこれからしようとしているのは、不確実性の源泉をこれらの概念に求めてみるという遊びである。こうした遊びをしてみることで、単に「不確実性のコーンを早期に収束させるには、精度の高い意思決定をいかに速く行うかに掛かっている」などという通り一編の理屈を超えた、更に面白い洞察を期待するものである。とはいえこの文章はだいぶ長くなってしまったので、今日はここまで。続く。

ソフトロジカル

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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ここ数ヶ月、心のどこかで常に意識していた概念がある。それは、非論理をも内包する論理は可能か、と言うものだ。ぼくは今「可能だ」と考えている。そして、そんな論理的思考のことをとりあえず「ソフトロジカル」と呼び始めている。ソフトロジカルとは、以下のような事象を積極的に肯定する論理的思考だ。・偶発的な事象
・感情
・(揺れ続ける)価値観
・宗教など、あらゆる非科学的な物事
・反論理的な思考(アートなどに顕著)
・…まとめると、非論理、非科学、反論理、偶然性、相対性、不完全性、不確定性などを積極的に肯定する論理的思考、と言うことになろう。一方、今よりもっとバカだったぼくの若い頃、論理的思考というものは上記のような非論理を排除して考えるものだと思いこんでいた。いわばこれは「ハードロジカル」である。ぼくがハードロジカルな思考だったのは、若い頃エンジニアとして、全てが論理的な記号の中で成り立つプログラムの世界に長く没頭していたせいだろう。しかしそれは、世の中を完全に捉え間違える。非論理を排除して考えることは、世の中を単に理想化し、捻じ曲げて解釈しているだけに過ぎない。

反自動化

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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今、業務や個人的なことを徹底的に自動化しようとしているが、しないほうが良いことがあると気付いた。自動化とは、考えなくても良くすることである。考えなくても良いということは、記憶にとどまらなくなる。記憶にとどまらないということは、ルールを守るような自発性も生じない。ルールを守るためのルールは存在しない。ルールを守るのは、いかなる手段を講じたとしても、最終的には人間の自発性なのだ。例え面倒でも、考えたほうがいいこともある。ダイエットがその代表的な例だ。本能の赴くままにしておくと、たくさん食べてしまう。他にも、ヒューリスティックに抗うなどもその例だ。放っておくと、脳は思考をショートカットしようとする。安易なレッテル貼りなどを行ってしまう。こうした例を検討すると、結局「脳の自動化プログラム」に抗うべきところが、反自動化すべきところなのだと思える。自動化すると、脳はすぐに適応し、そこについて考えなくなる。その適応には、ほとんど時間はかからない。2度ほど自動化の恩恵を受ければ、脳はその回路をショートカットしてしまう。このショートカットを起こさせないように、わざと反自動化するのだ。依存症も、ヒューリスティックも、本能も、脳内で自動的に動作するスクリプトだ。しかも、一度インストールされてしまうと、除去は非常に難しい。スクリプトが起動してしまえば、その処理を押し止めるのは至難の業だ。できればインストールしない、インストールしてしまったなら、起動しないような習慣づけ(これにも反自動化が必要)を行うしか方法はあるまい。

解釈、推量

前回の記事で、ぼくはもう二度と「頭が悪い」という言葉を人に当てはめることはしないと決めた。ならば、「頭が悪い」という言葉をより詳細に分析し、乱暴なカテゴライズとレッテル貼りを人に対して行わないようにしなくてはならない。で、ここ数日考えていたことをざっとメモしておく。「頭が悪い」を仕事の文脈で使う場合、「仕事ができない」という言葉になるだろう。その言葉を無自覚に使った場合、「自分は仕事ができる」という傲慢さを抱え込んでしまうので注意が必要だが、とりあえず今の論理展開上では置いておく。仕事の能力とは、意思決定スキルと極めて深い関連がある。重要な意思決定を任せられるかどうかが、仕事の能力である。仕事のできない人には、意思決定の必要がないような単純作業しか任せられない。意思決定には様々なモデルがある。OODAループなどがその例だ。OODAとは以下の頭文字である。Observe…データを集める
Orient…データを解釈し、情報へと変換する
Decide…情報を評価検討し、決断を行う
Act…行動するこのうちOrientは非常に重要(ビッグO)で、データに妥当な解釈を与えるだけでなく、足りないデータを推量で補う必要もある。そしてぼくが発見したのは、ビッグOはコミュニケーション能力とも深い関連があるということだ。他者が発するメッセージに妥当な解釈を与え、言外のメッセージを推量する力が、良質なコミュニケーションを行う上では非常に重要だ。この「解釈」「推量」は、Orientで求められる能力とそのまま対応している。つまり、「解釈」「推量」は、コミュニケーションにおいても、意思決定においても非常に重要な能力だと言える。この2つを高いレベルで備えているかどうかが、仕事の能力と強く関連していると言っても過言ではあるまい。では、この「解釈」「推量」の力を高めるにはどうすればよいか?・バイアスの排除…バイアスは解釈を歪める一番の原因となる
・いろんな立場の経験を積む…人は、経験したことのないことを推し量ることは難しい。逆に言えば、いろんな立場の経験を積みたいと思うような好奇心があるかどうかが重要だと言える・共感能力…人に共感できる能力は、人の気持ちを推し量る上で役に立つ。ただし、それが強すぎると、それが認知バイアスの原因にもなり得るので、適切な度合いである必要がある ・過信しない…バイアスの…