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投稿

統合

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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2017年も終わろうとしている。そこで、振り返りの文章を書こうとしている。本当はもう少し年末近くに書き始めたほうがそれっぽいのだが、書きたいと思っている事柄が曖昧模糊としているので、時間の限られた状況では書ききれないかもしれぬ。なので、とりあえず書き始めて、思いついた時にまた書き足し、それをもって何となくの本年の締めくくりとしたい。

去年、今年と、あまりこのブログを書いていなかった。理由ははっきりしている。言葉にしたいことはしつくした感があったからだ。

昨年前半、ひたすらに文章を記している時期があった。長年考え続けたこと、悩み続けたこと、それをあと一歩まで追い詰めたという状況であったからこそ、脳が活性化し、次から次へと新たな着想を得て、最後は自分的に答えを出し、終わった。

そうした状況であることは基本的に変わっていない。ぼくを悩ませた諸問題については、ほとんど考えるのを辞めてしまっていたからだ。だから今思うのは、考え散らしたいろいろな物事を俯瞰し、つなげ、幾十万の文字にしたためてきたことを簡潔にまとめてみたいと言うことである。

ぱっと思い返すに、価値観、道徳、法、自由、生の目的、言語、存在と実在、政治システム、経済システム、論理と非論理などについて考えた記憶がある。これらは、考えている当時は単に好奇心の赴くままに次から次へと飛びついていたような感覚であったが、今考えれば全てつながっていた。だからこそどんどん思考の輪が広がったのである。本日を始めとして、こうした数年の思考を統合したい。そして、人生の後半戦に備えたい。
最近の投稿

嘲笑

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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人間的な成長と呼べるものがあるとしたら、それは自分をメタに眺める視点を手に入れることであろうと思う。

ただ、いかにメタな視点から眺めようとしたところで、所詮自分は自分というシステムから逃れ出ることはできない。どれほど過ちを犯しかかっていようと、結局は自分というシステムに屈服するしかないのだ。

だから、できることはただ、滑稽な自分を笑う他にない。過ちと知りつつ突き進む自分、どうにもならないその歯がゆさを、ただただ呆れて笑うしか。これが、自分に対してメタ的な態度で臨む際の正しい姿勢なのだと、最近は思うようになった。

だからぼくは、今日も路上を走りながら、自分に呆れて笑うのだ。

符号

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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物事は重なるものである。

仕事や個人的なイベントのラッシュをくぐり抜け、なんとか平穏な精神生活を取り戻してから1週間。

長らく溜まっていたタスクたちを全て消化したその日。

会社の将来を占う、極めて重要な通達がなされた。

決していいニュースではない。ただ、「会社ごっこ」をやめ、本気で経営に取り組まねばならないという危機感をもたらしてくれるという意味では、決して悪い話ではない。

ぼくの人生のフェーズが変わる。それを象徴するかのような1日を終え、決定的なシーンを何度も反芻し、胸を締め付けられるような切なさと感謝を感じながら、挑戦者の気持ちを胸新たに、多少の高ぶりを感じている。悪くはない。

こうした物事の重なりはただの偶然と知りつつも、そこに意味を見出そうとするのは愚かだと知りつつも、戯れに「運命」などを感じてみる。そのほうが面白いがゆえに。

ゆるGEB(げぶ)という読書会を開催しました

昨日、通称「ゆるげぶ」こと「【ゆるふわ】ゲーデル・エッシャー・バッハ読書会」という会を催してきた。

その名の通り、ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環という本をみんなで読む会である。株式会社コパイロツトさんに場所をお借りして、男性3名、女性5名という男女比での開催となった。なんの気負いも打算もなく、純粋に(知的)好奇心だけで行動できる人が女性には多い。これって実はすごいことだと思う。

そして、「ゆるく読もう」をテーマに集まり、参加者みなそれを心がけていたはずなのに、結局のところ3時間超、自己紹介の時間を除いても2時間程度、みながみな必死に思考の限りを尽くす時間となった。

まだ序論しか読んでいない状態なので、「この本はどんな本(だった)か」を語れる立場にない。しかしそれでも言えることは、とにかく難物である。文章そのものは平易で、表現もストレート。難しい専門用語もほとんど使わない。なのに、難しい。とにかく次々に「知性で乗り越えねばならない壁」を眼前に突きつけられるような感覚を抱かされる本である。

だからこそ、乗り越えた時は喜びもひとしおである。昨晩は、「数論の命題を数で表すことができれば、数論の命題が数論の命題についての命題であり得ることを見抜いた」という文章(P.33)について、参加者が次々に説明にトライしては玉砕していたり、集合についての問題(P.37)についてみんなで数十分頭を悩ませたり…と、これまでの人生であまり出会ったことのない体験に遭遇できた。いろんなイベントを企画してそれなりの体験をしてきた身としては、こういう新感覚に出会うことは望外の喜びである。そうか、人間は難しいことに悩むという体験も、共有することでエンターテイメントに昇華できるのだな、と。

個人的な理解はまだまだ追いついていない状態だが、これからの展開に対する予感も含めて現時点での感想を書くと、「『(論理的に)考える』とは何なのか」について語っている本なのだろうと感じている。

アキレスが亀に追いつけない」という逸話で有名なゼノンのパラドックスや、「クレタ人はみな嘘つきである」で有名なエピメニデスのパラドックス、そして先ほどの集合はラッセルのパラドックスから着想した問題らしいが、現実世界では問題にならないことが、思考で捉えようとすると、論理として成立せず、真とも偽とも言えない状態が…

2017

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 新しい年が始まった。初日はぼくの実家でダラダラしながら、合間にグダグダものを考えていた。ここに示すのはメモであり、私以外の人間が読んでもおそらく意味がわからないだろう。
昨年は、あらゆる価値観を肯定する術を見出したように思い、実践する日々であった。その結果得られた洞察もある。
あらゆる価値観を肯定しようとするものには、いくつかのハードルが現れる。
一つが道徳の問題。道徳に反することを肯定することは可能か、という問題である。これは陳腐な問いのようであり、答えは常にイエスとしか思えない。しかし、道徳の表す対象が、社会的な規範ではなく、内面的な規範や美学であった場合、事は複雑になる。私は、(自分的には絶対許せないと確信している)麻薬の売人や、女性や子供に暴力を振るう男を肯定できるのか?という問題である。絶対に肯定はしたくない。しかし一方で肯定もしたい。それは無矛盾を求める気持ちからである。
一つが主客の問題。私が許せるもしくは許せないことと、社会的に許されているもしくは許されていないことの間に、不一致があった場合のジレンマである。
さらに一つは、勉強熱心な政治家のジレンマである。政治家は勉強熱心であればあるほど、大衆の感覚がわからなくなっていく。大衆はそこまでものを考えていないからだ。これは、大衆をバカにしているのではない。専門家とそれ以外、という構図がある場合にはどこにでも成り立つことであり、いわば社会の至る所にあるジレンマである。ただそれが政治家の場合は、大衆の気持ちと乖離するということが彼にとって致命的だということだ。もしかすると国の将来にとっても。そういう意味で、私は昨年のトランプショックのことは忘れないだろう。 そして、私は価値観についての諸々を考えるうち、一般的な感覚からはだいぶ遠いところに来てしまった感覚がある。おかしい、私は社会一般、人間一般を探求していたはずなのだが。
このうち、前の二つについては今日、解決のヒントが見えた。
個人の価値観と集団の価値観の間にジレンマがある、というのが二つの問いの前提にある。そしてそこに乖離が生じたときに問題が発生する。
しかし私は実は、乖離が生じたときの問題については昨年乗り越えていたのだった。すなわち、社会的な価値観を受け入れるかどう…

2016

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- この一年は、実践の年であった。サービスを一つ世に出し、運営した。多くの企画ごとや遊びを行い、人と交わった。
特にあらゆる価値観を肯定する、というスタンスに身を置くことを定め、実践を繰り返して態度を補強してきたのは、自分的には価値があった。交友関係は広がったし、思考の柔軟性も高まったように思う。また、価値観の肯定を心より行うためには、自身と違う考え方をまずは受け入れる必要があるが、そのために私は「面白い」という言葉を発するようになった。この習慣が、相手に対する自然な敬意を抱くことにもつながっており、相対的に自分が謙虚になるのも良い変化である。
ただ、あらゆる価値観を肯定するという態度を保ち続けることの難しさも日々実感している。どうしても好みは偏り、自分に禁じている以下の言葉を発してしまう。
・つまらない ・くだらない ・興味ない
来年は引き続き、こうした言葉を発さない人間になるための実践を繰り返す日々となるだろう。
また、今年は実践を重んじたがために、学問に時間を割けず、また、生活に意識的な学びの時間を入れることができなかった。来年は、最先端コンピューティングと数学、そして現実の社会に関する知識の習得に時間を割いていきたい。

貴賤

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 ---- 昨日から頭を占めている事柄は、学に貴賤はあるのか、ということだ。
「蹴鞠おじさん」という言い方で、ヨッピーさんが問題提起を行なった。その件について、当事者の方々のご意見などをSNSで拝見したりしているが、正直、議論が全く噛み合っていないように思える。
ちなみに私は「どっち派だ」と問われたら「どちらでもない」と答える。ただ、「蹴鞠おじさん」と呼ばれた側はやはり冷静さを欠いてしまっていて、何を突かれたのか理解していないようには見える。
「蹴鞠おじさん」の件から私が感じ取ったのは、要するに知識人、業界人の「上から目線」が鼻持ちならないというメッセージだ。もちろん、ヨッピーさんも「蹴鞠おじさん」も、もっといろんなことを引き合いに出して語っている。だが、私には「蹴鞠おじさん」のスノッブさを糾弾しているというのが、問題の大きなウェイトを占めているように思える。
そして思うのだ。学に貴賤はあるか?と。
話題になったハンドブックを「読めない」と漏らした人物を、「学が足りない」と見下すことは容易である。だがその人は、一般的に「学」と呼ばれる事の少ない、しかし実践的な知識を普段から学んでいるかもしれぬ。Google Analyticsの使い方や、引きの強いタイトルの付け方、いかに低コストでSEOに強い記事を生成するか、自分が対象とする読者層のニーズは何か、などなどなどなど。これは立派な学ではないか?
また「蹴鞠おじさん」はもしかすると、若い人よりも学びに時間を割いてきたから、より多くのことを知っているかもしれぬ。それが、これからも多くを学ぶはずの若いひとを見下す理由になるだろうか?
私がこうした物言いをしていることからも、何を学ぶかに貴賤はあるか?という問いについて、私がどう考えるかは明白だろう。私は「ない」と考える。
ただ、個人的な恥を晒すようで恐縮だか、私は昔、「ある」と考えていた。哲学を学ぶ方が、ゲームの攻略法を学ぶよりも価値が高いのだと。科学を学ぶ方が、ラノベを読むより価値が高いのだと。しかしその態度が最終的に私にもたらしたものは、「自分が興味を向けるものは価値が高く、そうでないものは価値が低い」「自分が学んだものは価値が高く、そうでないものは価値が低い」という我ながら鼻持ちならない態度であ…