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投稿

反省

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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反省すべき、時期が来た。そういう時期が来る前は、物事が周りで軋みだす。ぼくの慢心、過信、怠惰などが原因で、周りの色々な人に迷惑がかかり始める。それを気付かせてくれるのは他者、特に妻だ。ぼくがギリギリのところで踏みとどまれているのは、妻の存在に依るところがとても大きい。心の底から感謝している。さあ、明日、反省から始めよう。
最近の投稿

笑み

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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今この瞬間にしか書けないことを書く(だからこそあとで見ても意味がわからない、たぶん)。ちゃんと笑っている。ちゃんと無意識に笑みを浮かべている。ぼくの意見を否定されたのに。そのことに気付いたとき、ものすごく嬉しかった。ぼくは今、くだらない自尊心が心のどこにも無かった。目的が達成できるなら自分の意見や存在などどうでもいいと思っていた。そして、人が遠慮ない意見をぼくにくれる、この状況を心から楽しんでいた。40年生きて、ようやくここまで来た。第一歩だ。自分のことを健やかに軽んじることができた。ありがたし。

思い込み

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近、落ち込むことがあった。まだ立ち直れてはいないが、その原因を追求すると、そこには過信があった。まだよくわかってもいないことを分かっているかのように錯覚してしまったのだ。こうした過信が、どうして心の中に忍び込んでくるのだろう。そして、その過信を強く諌めようとすると、今度は過度な自信喪失を引き起こしそうになる。先日は、久しぶりに人に対する恐怖感などを覚えていた。まあでも、よく考えればよくあることだ。ぼくはアホだから、昔からすぐに過信してタカをくくり、失敗するタイプ。それを多少なりとも客観視できるようになったことが、昔に比べて多少マシになったところだ。過信に限らず、物事に対して期待値を高く持ちすぎるとか、誤った思い込みは、油断するとすぐに忍び込んでくる。一時期は気を付けてエポケーを心がけていたが、最近は少し怠けていたからかもしれない。気を引き締めねば。

資本主義と存在

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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資本主義は、「人がお金を払ってまで存在を望むもの」とそうでないものに事物を切り分ける。お金が払われないものには、存在は許されない。もちろんこれは非常に単純化したものの見方だ。ただ、マクロな視点で見たとき、この傾向は疑う余地がない。一つ紛れがあるとすると、ウェブという無限の情報空間が、「失われた存在」の保持と発見を容易にしていることである。ウェブがそうした情報をどれくらい保持していられるのか、その耐久度については、人類はまだ知らない。こう考えていくと、世の中に物を存在させているのは人々の関心である。事物は、関心を向けられている時のみ存在する。人々がお金を払うかどうかは、関心のバロメーターである。人が関心を失うと、その事物の存在は過去のものになる。「ある」ではなく「あった」になる。資本主義が物事の生成と消滅を加速させるのは、自由競争のゆえである。どのような市場においても、激しい競争の末生き残れるのはごく一握りのプレーヤーのみで、それ以外は忘れられていく。そうして生き残ったとしても、破壊的イノベーションにより、市場そのものが忘れられていく。存在とは、人々の記憶だとも言える。関心を向けられた対象は、人の記憶に留まれる可能性がある。多くの関心を強く集め続けること、それは存在という本質的に不確かなものを、少しでも確固たるものにしたいという、人間の根源的な欲求に思える。こんな欲求を抱くのはおそらく人間だけだ。なるほど、ハイデガーが人間を「現存在」と呼び表した意味はここにあったか。またこうした欲求こそが、存在に対する執着であり、この執着が人間を苦しめる。この執着を解体しようとするのが、仏教における「空」の思想なのだろう。西洋哲学と東洋哲学は、存在論という根源的なレベルで深くリンクしていると今気付いた。

無知

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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今日は、自分が一番物を知らなくて、一番物分りが悪くて、一番ピントがズレてて、そこに居た皆さんが先生で、ずっと緊張してて…最高に楽しかった。ぼくはなんだか、自分の世界を常に広げ続けていたいタイプらしい。願わくば、死ぬまで世界を広げ続けていたいものだ。自分に価値を求めないことで心の安寧を得ている人間としては、自分の慢心を打ち砕き、自分が一番無知であるような場は本当にありがたい。そんな場では、誰もぼくに特段の関心を払わない。なぜなら、その場で一番無価値な人間だからだ。
もちろんそんな場は居心地が悪い。逃げ出したい。不安だ。疲れる。つらい。
しかし、そんな場で素直に自分の無知を認め、自分よりも遥かに年下の人たちに教えを乞うという体験が、最高に刺激的で、生きていると言う実感さえ得られる。逆に言えば、居心地のいい場所でのんびり構えている時は、半ば死んでいるようなものとすら感じられる。願わくば死ぬまでこういう経験をしていきたいものだ。死ぬほど、生きろ。悪くないコピーじゃないか?

単純化

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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最近読んだ本にこんな文章があり、なかなか秀逸な表現だと舌を巻いた。> 人間は物事を考えるとき、必ず理想化して単純に考える。
> 単純化することそれ自体が理解したということになるのかもしれない。これは普段「抽象化」という伝わりにくい表現になってしまったり、ホフスタッターがGEBで「同型対応」と呼んだりした概念を、見事にわかりやすく表している。そう、人間が言語を介して物事を理解するのはまさに「単純化」と言って良い。複雑な事象をコンパクトな単語にまとめ、記憶にしまい込むという作業は、まさに単純化以外の何者でもない。「単純化こそ理解の本質」という立場に立つと、「知ってはいるけど理解はしていない」「知りすぎていて、言葉で表せない」と言った現象もすんなり説明できる。前者は「単純化された言葉とその意味は知っているが、その裏にある複雑さに相対していない」という状態。後者は、事象の複雑さに何度も相対して学習し、もはや言語ではない情報で理解(これを「身体化」と呼ぼう)してしまっている状態である。更に考察を進めよう。プログラミングとは、言語化の作業である。物事を単純化し、言語化し、理解し、それをプログラム言語に翻訳する。ここでは、人による「理解」が必要になる。第2次人工知能ブームでの「エキスパートシステム」が失敗に終わったのは、身体化してしまっている知識を言語化しなくてはならなかった、つまり単純化しなくてはならなかったからだ。その単純化の過程で、多くの大事な情報が抜け落ちてしまう。また、言語化のスキルが低い人が事象を単純化すると、誤ったシステムが出来上がってしまう。しかし第3次人工知能ブームでは、ビッグデータと機械学習のおかげで、複雑な事象をそのままアルゴリズムにできてしまう。そのアルゴリズムを人間が理解できないと言うのは、そこには言語化できない知識が大量に含まれているからだ。機械学習により、もしかすると言語化という活動は不要になるのだろうか?「手でプログラミングする」時代は終焉を迎えるのだろうか?
通り一遍のことを言うなら、「機械に代替されないものも残る」と言うのが答えだろう。しかし、それは何なのか?複雑な事象を、言語を介さず学習してしまう機械に対し、言語化という作業に…

ボーダーライン

言葉は境界を作り出す。言葉が指すものと、そうでないものに世界を分割する。時に人は、「そうでないもの」にも名前を付ける。善と悪。真と偽。地上と地下。右翼と左翼。有機物と無機物。などなど。二項対立の誕生である。言葉によって分かたれたあと、概念はその両極に向かって独り歩きを始める。その歩みを進めるのは、人間の意思だ。人間はなぜそんな意思を行うか?まず最初に関心があり、情報を得る。面白いと思えば更に調べ、情報は知識となり、知識は理解となり、理解は身体化して血肉となる。この過程で、人は自分の進む道、獲得しようとしている概念に愛着を抱きがちだ。特定の概念に愛着を抱くことは、反対概念の否定と隣合わせである。多くの場合人は、反対概念の否定という誘惑から逃れられない。だから人は、自分の好む概念を肯定し、愛着し、正当化し、時に信仰する。反対概念については否定し、遠ざけ、時に憎悪する。この「信仰と憎悪」は激しい対立を生み出すことから、戦争をする理由の正当化と世論形成の手段として、為政者によく利用されてきた。言葉が生み出すこうした現象は、古来より問題視され、解消する手段がいくつも提案されてきた。禅、中庸、止揚、エポケー、(キリスト教の)愛…これらのメソッドはそれぞれに説得力を持ちながらも、言語が二項対立を生み出すという「自然な」流れに抗おうとするものであることから、実践できている人はごく少数だ。おまけに、それらのメソッドそのものが言語で語られており、愛着や信仰の対象になりがちであるという、とんでもない矛盾を含んでいる。これらの有用な教えを全人類が真に理解するような日は、未来永劫期待できそうもない。とはいえこうした現象は、言語を獲得した人間の業とも言えるが、極めて豊潤で肯定すべき営みであるとも言える。知的活動は言語なしには成り立たない。混沌とした世界の中にあるパターンを見出し、言葉をあて、記憶し、記録し、他者や次世代に語り継ぐ。その言葉が持つ概念を突き詰める中で、今まで気づかなかった微細なパターンを更に見つけ、細分化していく。世界を限りなく言語で単純化しつつ分類していくこと。それが知的行動の要諦だ。言語の指示作用による世界の分断は、知性とのトレードオフなのだ(とはいえ、言語を持たぬ動物が同種同士で争っているのを考えると、分断や闘争は生物にとってそもそも不可避なのだろうとも思う)。さて、こう…