2016年11月11日金曜日

貴賤

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----

昨日から頭を占めている事柄は、学に貴賤はあるのか、ということだ。


「蹴鞠おじさん」という言い方で、ヨッピーさんが問題提起を行なった。その件について、当事者の方々のご意見などをSNSで拝見したりしているが、正直、議論が全く噛み合っていないように思える。


ちなみに私は「どっち派だ」と問われたら「どちらでもない」と答える。ただ、「蹴鞠おじさん」と呼ばれた側はやはり冷静さを欠いてしまっていて、何を突かれたのか理解していないようには見える。


「蹴鞠おじさん」の件から私が感じ取ったのは、要するに知識人、業界人の「上から目線」が鼻持ちならないというメッセージだ。もちろん、ヨッピーさんも「蹴鞠おじさん」も、もっといろんなことを引き合いに出して語っている。だが、私には「蹴鞠おじさん」のスノッブさを糾弾しているというのが、問題の大きなウェイトを占めているように思える。


そして思うのだ。学に貴賤はあるか?と。


話題になったハンドブックを「読めない」と漏らした人物を、「学が足りない」と見下すことは容易である。だがその人は、一般的に「学」と呼ばれる事の少ない、しかし実践的な知識を普段から学んでいるかもしれぬ。Google Analyticsの使い方や、引きの強いタイトルの付け方、いかに低コストでSEOに強い記事を生成するか、自分が対象とする読者層のニーズは何か、などなどなどなど。これは立派な学ではないか?


また「蹴鞠おじさん」はもしかすると、若い人よりも学びに時間を割いてきたから、より多くのことを知っているかもしれぬ。それが、これからも多くを学ぶはずの若いひとを見下す理由になるだろうか?


私がこうした物言いをしていることからも、何を学ぶかに貴賤はあるか?という問いについて、私がどう考えるかは明白だろう。私は「ない」と考える。


ただ、個人的な恥を晒すようで恐縮だか、私は昔、「ある」と考えていた。哲学を学ぶ方が、ゲームの攻略法を学ぶよりも価値が高いのだと。科学を学ぶ方が、ラノベを読むより価値が高いのだと。しかしその態度が最終的に私にもたらしたものは、「自分が興味を向けるものは価値が高く、そうでないものは価値が低い」「自分が学んだものは価値が高く、そうでないものは価値が低い」という我ながら鼻持ちならない態度であり、それに気付いてからは、何を学ぶかということに対する価値観の物差しを投げ捨てた。全ての学びは同様に価値があり、価値がない。そう考えれば、あらゆる人が私より何かを学んでおり、知っており、あらゆる人を師と仰ぐことができる。そうした態度の方が、この無知蒙昧極まりない私という人間には合っている。


さらに言えば、学ぶことは学ばないことよりも価値が高いのだろうか?否、と答えたい。


価値があるから学ぶのではない。学びたいから学ぶのだ。

2016年11月7日月曜日

内向

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
一箇所に留まっていられない性分の人間の常として、ぼくも波が激しいタイプの人間だ。ぼくの中にはいろんな波がある。睡眠時間や性的欲求など本能に根ざしたものから、仕事や読書へのやる気なども、原因があるのかないのこわからない波によって大きく左右される。

そして先週あたりに気付いたのだが、今ぼくは内向的な波が来ている。外との接触を避け、内に込もり、内省的な書き物が増え(まさにこの文章だ)、抽象的な思索を好み、視界は広く視野も長期的になるが、少し理想主義的で現実を離れた思考を好むようになり、日々の現実を伝えるニュースよりも、人の思想が込められたドキュメンタリーやノンフィクションを好むようになる。

それ自体は喜ぶべきことでも悲しむべきことでもないが、基本的にはただのオタクで、ビジネスマンとしてのバランスを欠いてしまった状態なのは間違いない。若い頃よりも自覚的になったという点では少し成長したのかとも思うが、若い頃ほど徹底できない(のもわかっている)という点で、衰えたとも言える。

ということで、多少はこのブログでのアウトプットも増えるかもしれない。最近はプライベートなメモも併用してるので、以前ほどではないかも知れないが。

2016年10月31日月曜日

私的言語

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
最近実は、個人的なメモアプリ(Google Keep)に考えを書き留めている。以前はそういう作業はこのブログで行うのが常だったのだが、より自由な思考を求めて、プライベートなメモを使用してみている。

やはり、誰にも見られないことが前提だと、開放的になって何でも書けるのは良いところだ。物事を考える時には、タブーを設けてはいけない。自然と考えの幅が狭くなってしまうからだ。

しかし副作用もある。自分にしか通用しない言葉をどんどんと生み出してしまうのだ。そして、言葉はどんどんと鋭さを帯びる。思考が先鋭化していくのを感じる。誰からも咎められる心配がないので、思考のバランスを取る必要がないからだ。

そうして鋭さを増し、自分の世界で論理的な完全性を何度も確かめられ、容易に崩せないドグマへと変容していく。そうしたドグマは、自分だけでなく他人にも大きな遠慮力を及ぼしてしまう。「絶対的な正当性」という幻想的な力をおびてしまうのだ。

このように、自分の言葉に一面的な「正しさ」を帯びさせることは、プロパガンダが必要な局面では非常に有効ではある。政治家、宗教家、マーケターにとっては必要不可欠な心的作業だ。しかし一方で、その正しさを普遍的なものと見なすようになることは実に容易であり、非常に危険だ。世界を客観的に眺められなくなり、時勢を見誤り、敵を作り、自分と異なる価値観を否定し、世界を狭くする思想だ。さらに良くないのは、その「正しさ」を自らが疑えなくなってしまうと、人にその正しさを伝えたくなってしまうのだ。自分と違う価値観を持つ人に対し「誤っている」と、特にまだ特定の価値観に染まっていない人には自分の正しい考えを植え付けようとしてしまう。これは本当に品のない行いで、絶対に辞めなくてはならない。

今回のことから得た教訓としては、否定を忘れた自由な思索は先鋭化して「正しさ」を帯び始めるということである。こうして一般公開しているブログに、他者の目を多少でも意識しながら書いているのは、そういう「自分へのブレーキ」という意味合いがあったのだと、今頃になって気付いた。

自己批判を忘れてはいけない。常に自分を二律背反の状態に置き、矛盾を飼いならすこと。そうすると言葉を失う。矛盾を抱えたままで正義の言葉を吐くことはできないからだ。そしてぼくは語る言葉をなくし、人の言葉を聴くしか無くなる。ぼくが言葉を発するのは、人の言葉を促す時と、アンチテーゼを控えめに提示することだけ、そうあるべきだ。

2016年10月12日水曜日

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
変な人やものが好きである。正確に言えば、ここ一、二年で好きになった。

ここ一、二年の私の内的な努力は、すべて内なる価値観の破壊であったと言っても過言ではない。無矛盾の美しさを追い求めていた自分から、矛盾を内包することによって生まれる複雑な模様を好む自分への生まれ変わりを欲した。そのために、「良い」「悪い」という感覚を抱くたびに、その感覚を自ら否定し続けた。善悪の基準を持つことは、「良い」ものを目指す志向へとつながり、最後は無矛盾と完全性を求めることに繋がる。そうならないために、私は積極的に矛盾を好んだ。自分と真逆の思考を喜んだ。世界が自分の思う通りではないことを発見するたびにゾクゾクとするような楽しさを感じた。

その挙句が、変なもの好きである。変な人が好きだ。予想だにしない受け答えをしてくれる人と話すのは楽しくてならない。もちろんそういう人は常識もなかったりするから、裏切られることも腹の立つこともあるが、そもそもそんな感情を人に呼び起こされることも珍しい体験なので、面白い。一旦はその「変さ」に辟易して親しい人に愚痴ったりしてしまうこともある。だが、ほとぼりが冷めてみると、そういう変な人がまたも恋しくてたまらなくなるのだ。

そして私は、そういう人たちのユニークネスに比べて自分の平凡さを嘆くのだ。

やれやれ、妙な事になった。この人生、どこに向かうのか。ただ、今が楽しいことだけは間違いない。

2016年10月11日火曜日

哲学脳

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
ゆるふわ哲学コンパというイベントを先日(2016/10/6)に行った。4時間近くに渡り、哲学めいた話に時間と脳を費やした。

哲学にこれほど長時間想いを馳せるのは、実に久しぶりの体験だ。最初のうちは、脳のチャンネルがなかなか合わなくて苦労した。

チャンネルが合わないと、個々の思想を形成する論理を思い出せず、結論だけになってしまう。なぜニーチェはキリスト教への攻撃と、西洋哲学全般への攻撃を同時に行ったのだったか。なぜフッサールは主観と客観の問題を掘り下げることで諸学問の基礎づけを行えると考えたのだったか。うーむ、思い出せない。再勉強が必要だな。

だがまあ、途中から少しずつ哲学的な脳が暖まってきて、最後の方では割と哲学的な直観を取り戻せていたように思う。

哲学を学んできて良かったと思うことは、論理の組み立てが上手になったことだ。しかしここでいう論理の組み立てとは、一分の隙もない論理を構築して相手の反論を許さない、ということではない。むしろ逆だ。自分が限られた情報しか持っていないこと、自分の認知能力には限界があること、自分の考えにはバイアスがかかっている可能性があること…などを率直に受け入れた上で、相手に助けを求めつつ自分なりの論理を披露することだ。事象の分析に費やす時間も、集められる情報も限られているのが世の常であり、その中で最善の結果を導くためには、穴だらけの論理(仮説ともいう)を持ち寄って現実への近似と置き、具体的な行動を以って望む未来を手繰り寄せる努力をしていくほか、ないように思える。

2016年9月13日火曜日

やりたい事探し

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
世の中、「やりたい事を見つける」と言うのが正しい事であるとされているようだ。やりたいことに全力を費やす、そんな時間の楽しさを知っている人間が、悩める人間に与えるアドバイスとしては、しごく真っ当なものだろう。

だが私はここ数年、そうした風潮に異を唱えてきた。私は、会社を3回転職してフリー、その後起業すること3回、一度は収入をかなぐり捨ててコミュニティ活動に全力を費やしたりもした人間だ。「やりたいこと探し」に費やした時間だけは、そうそう人に負けない自信がある。そして、やりたいことを見つけたと思って踏み出すと、その道は大きく外れていて軌道修正を余儀なくされる…という目に何度もあってきた。だから、やりたいことを探す、という行為には非常に懐疑的であった。そんなことに時間を費やすなら、何も考えずに、心の赴くまま行動するほうが良いと。

ただ、そうした「思考放棄」にも聞こえる思想は、実際悩める人々には伝わらないということも最近分かってきた。いやまあ、アドバイスなんてガラではないし、むしろ忌避したいと思うくらいなのだが、年を取るとたまに若い子とそういう話になる事もある。そして、「やりたいこと探し」に大きな時間を費やした人間としては、何事かを伝えたくなってしまうのもまた、事実だ。

そんなことをなんとはなしに考えていたある朝、ほぼ夢うつつの状態で、この件に関して脳が勝手に思考し、答えをまとめていた。そういうことはたまにあるが、だいたい忘れてしまう。しかし今回は、起きたあともはっきり覚えていたので、自分に対しての備忘録がてら書き残そうと思う。

「やりたいこと探し」は、自由な社会に生きる私たち特有の悩みといえよう。今後も自由が保たれるなら -- そうしなくてはならない -- 私たちにずっとついて回る、もしかすると一生付いて回る問いかも知れぬ。

その問いを愚問だとして退けることも難しい。その問いに心が囚われた瞬間から、その人に取って人生最大の関心事となるのは間違いないからだ。では真正面から向かい合うとして、何に気をつけるべきか。どうしたらその問いに誤りなく答えることができるのか。

私が考えるに、気をつけるべきことは3つある。
一つ、「今」に最も集中すること。
一つ、私の「欲」を表す言葉を使うこと。
一つ、答えが複数あること、そしてそれらが時に矛盾することを受け入れること。

「やりたいこと」を問われて、「ご飯食べたい」「寝たい」と答える人は、アホだと思われることだろう。やはりこれからしばらくの未来にかけて、もしかすると「一生かけてやりたいこと」を念頭に置いて考えようとするのが、真面目な人間の在り方だ。しかし、未来の事など誰も分からないし、未来の自分がどう考えるかなど分からない。また、「やりたいこと」を想像するからには、それはつまり「まだやってないこと」なのだ。やったこともないことを想像するのには限界がある。それほど不確定な未来を考慮に入れながら、正確な答えを探ろうとするのはハナから無理がある。考えるべきは、未来の自分が何をしたいかではなく、今、自分が何をしたいか、だ。

また、やりたいことを人に伝える時、どうしても格好の良い言葉を使いたくなる。「金が欲しい」「働きたくない」などとは、なかなか言えないものだ。だが、そうした飾り気のない自分の「欲」「ワガママ」こそが本音であり、今後の自分にとっての活力となるモチベーションなのだ。「やりたいこと」として思い描かれる多くの格好の良い言葉は、いわば自分の欲を満たすための手段とみなしていい。そのほうが、格好いい言葉だけが上滑りしているような「やりたいこと宣言」よりもよほど説得力があるというものだ。

そして、「欲」とそれを叶える「手段」という構造は、自然と複数の「やりたいこと」を生み出す。欲と手段だけでも二つ。目的にたどり着くための手段は複数あるのが普通だから、自ずから「やりたいこと」は複数生じるのが普通なのだ。
しかし、私も苦い経験があるが、「やりたいこと」を問われると、たった一つの正解を見出そうとしてしまう。曖昧さを嫌う私たちの感情がそうさせるのだ。この、「答えを一つに絞らなければならない」というプレッシャーが、すでに目の前に見えているはずの答えを時に否定し、私たちに遠回りを強いることとなる。
しかし先ほども述べたように、答えは複数あるのが本来正しい。それらは時に矛盾することもあるが、それで良い。その矛盾はだいたいに置いて、利己的な欲と利他的な欲の発現であり、それは社会的動物としての我々が避けることのできない、だが超克することが可能な矛盾である。少しも悪いことではない。

これが、私が考える「やりたいこと探し」のコツである。私以外には何の役にも立たないまとめかも知れないが、一応忘れぬよう書き綴っておく。

2016年5月31日火曜日

人間

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
----
最近書いていないのは、特に書きたいことがなかったためだ。ぼくが書きたい気持ちになる時というのは、考えがなかなかまとまりそうもないテーマについて、何度も言語化を試みて、一歩ずつでも近づいていきたいと思う時だ。

で、最近少し、もやもやとしていることがある。まだそれは自分の中でも形を成していない疑問なのだが、きっかけは昨今の人工知能ブームである。

アルファ碁然り、電王戦然り、特定の領域で人間の知能をコンピュータが上回ることはもはや当たり前のことになってきた。数年経てば、人間が勝てないことは当たり前の事として受け入れられるだろう。

そんな、万物の霊長たる立場を危うくしている今、人間が人間に対して行う活動、例えば経済活動などについて、根本的な意味の変化が起きるのではないか?

今ぼくはビジネスについて学んでいるところであるが、ビジネスには実に、人間の「バグ」というか「癖」を前提としたものが多い。人間の認知能力の限界、愛着、道徳に伴うアンビバレンスな感情、慣習、身体性、依存性、などなど。しかし、こうしたバグを持たない超知性が誕生しつつある今、こうしたバグを前提とした活動にどれほどの意味が残されるのだろうか?そもそも超知性をいつまで道具として従えていられるのか?などなど。

まだうまく言葉にできず、無理に言葉を捻り出してみたところで、人工知能に関する月並みな疑問にしか見えないのが歯がゆい。だが、何か自分の中で、単なる人工知能の是非や礼賛/恐怖といった次元ではない、人間存在の意味といった点においての揺らぎを感じずにはいられない。それは、人工知能が人間を滅ぼすかどうかといった話ではなくて、人間を前提とした活動全てが意味を失うのではないか、といった存在論的、意味論的な不安だ。

この不安の正体はまだ掴みきれていない。もしかすると、継続的に言語化を試みるやもしれぬ。しないやもしれぬ。