2016年9月13日火曜日

やりたい事探し

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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世の中、「やりたい事を見つける」と言うのが正しい事であるとされているようだ。やりたいことに全力を費やす、そんな時間の楽しさを知っている人間が、悩める人間に与えるアドバイスとしては、しごく真っ当なものだろう。

だが私はここ数年、そうした風潮に異を唱えてきた。私は、会社を3回転職してフリー、その後起業すること3回、一度は収入をかなぐり捨ててコミュニティ活動に全力を費やしたりもした人間だ。「やりたいこと探し」に費やした時間だけは、そうそう人に負けない自信がある。そして、やりたいことを見つけたと思って踏み出すと、その道は大きく外れていて軌道修正を余儀なくされる…という目に何度もあってきた。だから、やりたいことを探す、という行為には非常に懐疑的であった。そんなことに時間を費やすなら、何も考えずに、心の赴くまま行動するほうが良いと。

ただ、そうした「思考放棄」にも聞こえる思想は、実際悩める人々には伝わらないということも最近分かってきた。いやまあ、アドバイスなんてガラではないし、むしろ忌避したいと思うくらいなのだが、年を取るとたまに若い子とそういう話になる事もある。そして、「やりたいこと探し」に大きな時間を費やした人間としては、何事かを伝えたくなってしまうのもまた、事実だ。

そんなことをなんとはなしに考えていたある朝、ほぼ夢うつつの状態で、この件に関して脳が勝手に思考し、答えをまとめていた。そういうことはたまにあるが、だいたい忘れてしまう。しかし今回は、起きたあともはっきり覚えていたので、自分に対しての備忘録がてら書き残そうと思う。

「やりたいこと探し」は、自由な社会に生きる私たち特有の悩みといえよう。今後も自由が保たれるなら -- そうしなくてはならない -- 私たちにずっとついて回る、もしかすると一生付いて回る問いかも知れぬ。

その問いを愚問だとして退けることも難しい。その問いに心が囚われた瞬間から、その人に取って人生最大の関心事となるのは間違いないからだ。では真正面から向かい合うとして、何に気をつけるべきか。どうしたらその問いに誤りなく答えることができるのか。

私が考えるに、気をつけるべきことは3つある。
一つ、「今」に最も集中すること。
一つ、私の「欲」を表す言葉を使うこと。
一つ、答えが複数あること、そしてそれらが時に矛盾することを受け入れること。

「やりたいこと」を問われて、「ご飯食べたい」「寝たい」と答える人は、アホだと思われることだろう。やはりこれからしばらくの未来にかけて、もしかすると「一生かけてやりたいこと」を念頭に置いて考えようとするのが、真面目な人間の在り方だ。しかし、未来の事など誰も分からないし、未来の自分がどう考えるかなど分からない。また、「やりたいこと」を想像するからには、それはつまり「まだやってないこと」なのだ。やったこともないことを想像するのには限界がある。それほど不確定な未来を考慮に入れながら、正確な答えを探ろうとするのはハナから無理がある。考えるべきは、未来の自分が何をしたいかではなく、今、自分が何をしたいか、だ。

また、やりたいことを人に伝える時、どうしても格好の良い言葉を使いたくなる。「金が欲しい」「働きたくない」などとは、なかなか言えないものだ。だが、そうした飾り気のない自分の「欲」「ワガママ」こそが本音であり、今後の自分にとっての活力となるモチベーションなのだ。「やりたいこと」として思い描かれる多くの格好の良い言葉は、いわば自分の欲を満たすための手段とみなしていい。そのほうが、格好いい言葉だけが上滑りしているような「やりたいこと宣言」よりもよほど説得力があるというものだ。

そして、「欲」とそれを叶える「手段」という構造は、自然と複数の「やりたいこと」を生み出す。欲と手段だけでも二つ。目的にたどり着くための手段は複数あるのが普通だから、自ずから「やりたいこと」は複数生じるのが普通なのだ。
しかし、私も苦い経験があるが、「やりたいこと」を問われると、たった一つの正解を見出そうとしてしまう。曖昧さを嫌う私たちの感情がそうさせるのだ。この、「答えを一つに絞らなければならない」というプレッシャーが、すでに目の前に見えているはずの答えを時に否定し、私たちに遠回りを強いることとなる。
しかし先ほども述べたように、答えは複数あるのが本来正しい。それらは時に矛盾することもあるが、それで良い。その矛盾はだいたいに置いて、利己的な欲と利他的な欲の発現であり、それは社会的動物としての我々が避けることのできない、だが超克することが可能な矛盾である。少しも悪いことではない。

これが、私が考える「やりたいこと探し」のコツである。私以外には何の役にも立たないまとめかも知れないが、一応忘れぬよう書き綴っておく。

2016年5月31日火曜日

人間

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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最近書いていないのは、特に書きたいことがなかったためだ。ぼくが書きたい気持ちになる時というのは、考えがなかなかまとまりそうもないテーマについて、何度も言語化を試みて、一歩ずつでも近づいていきたいと思う時だ。

で、最近少し、もやもやとしていることがある。まだそれは自分の中でも形を成していない疑問なのだが、きっかけは昨今の人工知能ブームである。

アルファ碁然り、電王戦然り、特定の領域で人間の知能をコンピュータが上回ることはもはや当たり前のことになってきた。数年経てば、人間が勝てないことは当たり前の事として受け入れられるだろう。

そんな、万物の霊長たる立場を危うくしている今、人間が人間に対して行う活動、例えば経済活動などについて、根本的な意味の変化が起きるのではないか?

今ぼくはビジネスについて学んでいるところであるが、ビジネスには実に、人間の「バグ」というか「癖」を前提としたものが多い。人間の認知能力の限界、愛着、道徳に伴うアンビバレンスな感情、慣習、身体性、依存性、などなど。しかし、こうしたバグを持たない超知性が誕生しつつある今、こうしたバグを前提とした活動にどれほどの意味が残されるのだろうか?そもそも超知性をいつまで道具として従えていられるのか?などなど。

まだうまく言葉にできず、無理に言葉を捻り出してみたところで、人工知能に関する月並みな疑問にしか見えないのが歯がゆい。だが、何か自分の中で、単なる人工知能の是非や礼賛/恐怖といった次元ではない、人間存在の意味といった点においての揺らぎを感じずにはいられない。それは、人工知能が人間を滅ぼすかどうかといった話ではなくて、人間を前提とした活動全てが意味を失うのではないか、といった存在論的、意味論的な不安だ。

この不安の正体はまだ掴みきれていない。もしかすると、継続的に言語化を試みるやもしれぬ。しないやもしれぬ。

2016年5月30日月曜日

近況

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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久しぶりの書き込みである。が、書きたいことが特にある訳ではない。
今年初めは、価値観という長年追ってきたテーマについて多くの発想があったので、よくアウトプットしていた。そこについてもひと段落してからは、特に書き留めておきたいこともなく、今に至る。

価値観の件については、以前得た様々な発想を実践に移しているところだ。悪くない。誰のどんな価値観を開示されても、どうせこちらにはイエスと答えるしか選択肢がないので、余計なことに思い煩わずに済む。何を言っても肯定されるという雰囲気が相手に伝わるのか、以前ならなかなか話してもらえなかったような、個人的なことを開示される機会も増えた気がする。

仕事などについては、精一杯やってるとしか言いようがない。ただ、個人的には、死ぬまでの時間を遊んでいるという感覚は日増しに強くなっている。これも、価値の相対化によるものだろう。例えば何が無駄か、無駄でないかを判断するのは、主観の産物でしかない。遊びは無駄で、仕事は無駄じゃない。そんな感覚を失ってみると、全てが水泡に帰するかもしれない遊びでしかなくなる。全くもって不真面目な人間になりつつある。

目下の一番の悩みは食生活だ。爛れた食生活が嫌でたまらないのに、一向に改善しない。要は食の快感に依存している訳だ。しかも、その快感は毎食ごとに呼び起こされてしまうものだからタチが悪い。この依存を断ち切り、健康に関する不安を取り除きたい。そしてできれば長く人生を遊んでいたいというのが、今最も望んでいて、手に入らないことである。

2016年4月7日木曜日

実践

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少し久しぶりの更新である。書かない間は、以前までこのブログでくよくよと考えていたこと、価値観に関するあれこれを実践していた時間であった。

ポランニーは、形式知と暗黙知の相互作用を解き明かしたが、まさにそれを今地でいっているようだ。最初は考え考え実践する。あらゆる人の価値観を肯定できる人間になるため、「否定する自分」を攻撃したり、自分が拒絶したり無関心だったものに敢えて近づいていったり、などだ。

それを繰り返しているうち、段々と考えなくとも、そうした所作が実践できるようになってくる。言葉が、論理が失われていく。単なる「自分の一部」へと消化されていく。そんな日々である。

2016年3月24日木曜日

38

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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今日、1つ歳を取った。しかし感慨は、薄い。


歳を取るにつれ、自分に起こる出来事に、どんどんと淡白になっていくようだ。


先ほどから何事かを書こうと思うが、何も思い浮かばない。書くべきことが見つからない。


無理に書くこともないと思うので、一旦筆を置こう。とりあえず1つ歳を取りましたよ、というご連絡まで。

2016年3月7日月曜日

弛緩

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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この一年、生活が弛緩していると感じる。ジョギングの頻度が減ってしまったのがその象徴だ。それだけではない。睡眠時間もすごく伸びているし、食生活は荒れ放題だ。

これではいけないとか、切り替えなくてはという気持ちは常に持っているが、いざ少しでも空腹を感じると甘いものを食べたくなるし、ジョギングに行くのは億劫になってしまった。

で、頭で考えてもしょうがないのも、ここまで長く生きていると分かってくる。頭でいくら考えても、「わかっちゃいるけどやめられない」だけだ。やめるという行動を実践し、続け、それが自分にとって普通のことになるまで、続けるしかないのだ。

一時期、今から考えると理想的な生活をしていた時分がある。食事は野菜や魚中心、お菓子やジュースの類は一切取らない。常に朝5:30に起きて、晴れていればジョギング、雨なら筋トレ。

あの頃は、全身にエネルギーが満ちていたし、大して寝なくても元気だった。あの頃に戻りたい。

ということで、戻るための生活を実践する事にする。

間食しない。飲み物は水のみ。とりあえず朝5:00に起きて1時間運動。

そしてそのことをこのブログに書くようにしよう。

2016年3月4日金曜日

選択

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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価値観について考えていると、自然と、人生における選択というトピックに辿り着く。人が価値観というものを必要とするのは、主に物事を選択するためだからだ。

選択に迷うのは、価値観が定まっていないからだ。価値観が定まっていなければ、何に重きを置き、何を諦めるかが決められない。人生における難しい問いの数々は、価値を定められない自分こそがその原因である。

何かを選ぶという事は、何かを捨てるということだ。選んだものがあるなら、選ばなかったものがある。ぼくが常々問題にしているのは、この「自分が選ばなかったもの」を軽んじる態度のことだ。そして、自分が選んだものこそが「価値が高い」と見なしてしまう態度のことだ。

自分が選ばなかったものを、とても大事に選び取った人や、それを選ばざるを得なかった人も、きっといる。だから、自分が選ばなかった物事を軽んじたり、悪し様に言うのは常に悪手である。むしろ、自分が選ばなかった道を選んだ人に、敬意を持って接するべきである。

選ばなかった物事に対しては、自然と関心が薄くなり、あまり知らないという状態になる。だから、自分が選ばなかった物事については多くを語るべきでない。広く世の中に関心を持って、バイアスの少ないものの見方をしたいと思うのなら、価値判断は可能な限り減らし、「選ばない」物事を減らすべきなのである。