2016年5月31日火曜日

人間

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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最近書いていないのは、特に書きたいことがなかったためだ。ぼくが書きたい気持ちになる時というのは、考えがなかなかまとまりそうもないテーマについて、何度も言語化を試みて、一歩ずつでも近づいていきたいと思う時だ。

で、最近少し、もやもやとしていることがある。まだそれは自分の中でも形を成していない疑問なのだが、きっかけは昨今の人工知能ブームである。

アルファ碁然り、電王戦然り、特定の領域で人間の知能をコンピュータが上回ることはもはや当たり前のことになってきた。数年経てば、人間が勝てないことは当たり前の事として受け入れられるだろう。

そんな、万物の霊長たる立場を危うくしている今、人間が人間に対して行う活動、例えば経済活動などについて、根本的な意味の変化が起きるのではないか?

今ぼくはビジネスについて学んでいるところであるが、ビジネスには実に、人間の「バグ」というか「癖」を前提としたものが多い。人間の認知能力の限界、愛着、道徳に伴うアンビバレンスな感情、慣習、身体性、依存性、などなど。しかし、こうしたバグを持たない超知性が誕生しつつある今、こうしたバグを前提とした活動にどれほどの意味が残されるのだろうか?そもそも超知性をいつまで道具として従えていられるのか?などなど。

まだうまく言葉にできず、無理に言葉を捻り出してみたところで、人工知能に関する月並みな疑問にしか見えないのが歯がゆい。だが、何か自分の中で、単なる人工知能の是非や礼賛/恐怖といった次元ではない、人間存在の意味といった点においての揺らぎを感じずにはいられない。それは、人工知能が人間を滅ぼすかどうかといった話ではなくて、人間を前提とした活動全てが意味を失うのではないか、といった存在論的、意味論的な不安だ。

この不安の正体はまだ掴みきれていない。もしかすると、継続的に言語化を試みるやもしれぬ。しないやもしれぬ。

2016年5月30日月曜日

近況

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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久しぶりの書き込みである。が、書きたいことが特にある訳ではない。
今年初めは、価値観という長年追ってきたテーマについて多くの発想があったので、よくアウトプットしていた。そこについてもひと段落してからは、特に書き留めておきたいこともなく、今に至る。

価値観の件については、以前得た様々な発想を実践に移しているところだ。悪くない。誰のどんな価値観を開示されても、どうせこちらにはイエスと答えるしか選択肢がないので、余計なことに思い煩わずに済む。何を言っても肯定されるという雰囲気が相手に伝わるのか、以前ならなかなか話してもらえなかったような、個人的なことを開示される機会も増えた気がする。

仕事などについては、精一杯やってるとしか言いようがない。ただ、個人的には、死ぬまでの時間を遊んでいるという感覚は日増しに強くなっている。これも、価値の相対化によるものだろう。例えば何が無駄か、無駄でないかを判断するのは、主観の産物でしかない。遊びは無駄で、仕事は無駄じゃない。そんな感覚を失ってみると、全てが水泡に帰するかもしれない遊びでしかなくなる。全くもって不真面目な人間になりつつある。

目下の一番の悩みは食生活だ。爛れた食生活が嫌でたまらないのに、一向に改善しない。要は食の快感に依存している訳だ。しかも、その快感は毎食ごとに呼び起こされてしまうものだからタチが悪い。この依存を断ち切り、健康に関する不安を取り除きたい。そしてできれば長く人生を遊んでいたいというのが、今最も望んでいて、手に入らないことである。

2016年4月7日木曜日

実践

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。
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少し久しぶりの更新である。書かない間は、以前までこのブログでくよくよと考えていたこと、価値観に関するあれこれを実践していた時間であった。

ポランニーは、形式知と暗黙知の相互作用を解き明かしたが、まさにそれを今地でいっているようだ。最初は考え考え実践する。あらゆる人の価値観を肯定できる人間になるため、「否定する自分」を攻撃したり、自分が拒絶したり無関心だったものに敢えて近づいていったり、などだ。

それを繰り返しているうち、段々と考えなくとも、そうした所作が実践できるようになってくる。言葉が、論理が失われていく。単なる「自分の一部」へと消化されていく。そんな日々である。

2016年3月24日木曜日

38

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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今日、1つ歳を取った。しかし感慨は、薄い。


歳を取るにつれ、自分に起こる出来事に、どんどんと淡白になっていくようだ。


先ほどから何事かを書こうと思うが、何も思い浮かばない。書くべきことが見つからない。


無理に書くこともないと思うので、一旦筆を置こう。とりあえず1つ歳を取りましたよ、というご連絡まで。

2016年3月7日月曜日

弛緩

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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この一年、生活が弛緩していると感じる。ジョギングの頻度が減ってしまったのがその象徴だ。それだけではない。睡眠時間もすごく伸びているし、食生活は荒れ放題だ。

これではいけないとか、切り替えなくてはという気持ちは常に持っているが、いざ少しでも空腹を感じると甘いものを食べたくなるし、ジョギングに行くのは億劫になってしまった。

で、頭で考えてもしょうがないのも、ここまで長く生きていると分かってくる。頭でいくら考えても、「わかっちゃいるけどやめられない」だけだ。やめるという行動を実践し、続け、それが自分にとって普通のことになるまで、続けるしかないのだ。

一時期、今から考えると理想的な生活をしていた時分がある。食事は野菜や魚中心、お菓子やジュースの類は一切取らない。常に朝5:30に起きて、晴れていればジョギング、雨なら筋トレ。

あの頃は、全身にエネルギーが満ちていたし、大して寝なくても元気だった。あの頃に戻りたい。

ということで、戻るための生活を実践する事にする。

間食しない。飲み物は水のみ。とりあえず朝5:00に起きて1時間運動。

そしてそのことをこのブログに書くようにしよう。

2016年3月4日金曜日

選択

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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価値観について考えていると、自然と、人生における選択というトピックに辿り着く。人が価値観というものを必要とするのは、主に物事を選択するためだからだ。

選択に迷うのは、価値観が定まっていないからだ。価値観が定まっていなければ、何に重きを置き、何を諦めるかが決められない。人生における難しい問いの数々は、価値を定められない自分こそがその原因である。

何かを選ぶという事は、何かを捨てるということだ。選んだものがあるなら、選ばなかったものがある。ぼくが常々問題にしているのは、この「自分が選ばなかったもの」を軽んじる態度のことだ。そして、自分が選んだものこそが「価値が高い」と見なしてしまう態度のことだ。

自分が選ばなかったものを、とても大事に選び取った人や、それを選ばざるを得なかった人も、きっといる。だから、自分が選ばなかった物事を軽んじたり、悪し様に言うのは常に悪手である。むしろ、自分が選ばなかった道を選んだ人に、敬意を持って接するべきである。

選ばなかった物事に対しては、自然と関心が薄くなり、あまり知らないという状態になる。だから、自分が選ばなかった物事については多くを語るべきでない。広く世の中に関心を持って、バイアスの少ないものの見方をしたいと思うのなら、価値判断は可能な限り減らし、「選ばない」物事を減らすべきなのである。

2016年3月1日火曜日

驚き

注意:このブログは、読者不在を心掛けつつ、白石俊平個人の私的な文章を面白くなく綴るものです。 
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家族や友人と過ごす日々の中でたまに、「自分の死を悲しむかもしれない人がいる」ということを思い、その度にいつも新鮮な驚きを感じている。

そんな人は一人もいない、という方が自然に思える。理に適っているように思える。ぼくの死を悼む人がいる、というのはどうにも奇妙だ。理に合わないように感じる。

同様に、ぼくの言葉や行動が人に影響を与えたりする、という現象にも不思議を感じる。いや、そんな事はこれまでも一度もなかったのではないか。ぼくの言動が人の人生に影響をもたらすなんてことが、あり得るのだろうか?あり得ないことのように思える。しかしどうやら、多少はそんなこともあるようなのだと最近はうすうす感じており、やはり理に背いているような違和感を感じてならない。

別に、自己の存在を否定しているとか、自己嫌悪しているとかではない。本気で、このようなことを、ただ、感じているのだ。

別に原体験というわけではないだろうが、こういうことに思いを馳せた時に、必ずと言って良いほど思い出すエピソードがある。20代半ば、どこで知り合ったのかは忘れたが、とあるベンチャーの社長に入社を勧められた事がある。その時ぼくはある開発のプロジェクトに携わっていて、割と要職を務めていたつもりでもあったので、「自分が抜けると迷惑がかかる」と言うような事を言っていた。その時に、そのベンチャー社長が言った言葉が、当時のぼくには衝撃的だった。

「あなたがいなくてもプロジェクトは回るんだよ」

この言葉を聞いた時、ぼくはそれを真実だ、と捉えた。そして不思議と、その事を悲しむ気持ちとかは起きなかった。むしろ、今まで気付かなかったことに気付いたという爽快感、自身が精神的に成長したような気にさえなったものだ。そう、プロジェクトはぼくが居なくてもきっと大した問題もなく回る。果たしてそれはプロジェクトに限った話なのか?世界はどうだ?ぼくがこの世界から居なくなっても、世界はなんの問題もなく回るだろう。ぼくが居ても居なくても、世界は1ミリも変わらない。

この感覚を、ぼくはネガティヴな意味付けをほとんどすることなく、正しいと確信した。このブログで言うところの思考の結び目を、固く結んだのだった。ネガティヴな感情を伴わなかったことは、割と容易に証明できる。なぜならぼくはこの感覚をその後事あるごとに利用したからだ。いわば道具として。自分が世界に一切の影響を及ぼさないというのは、ある意味とても楽な立場だ。何をしても許される。ぼくがどんなことを述べても、何をしても、物事は壊れない。そんな気楽さを持って、その後数年、傍若無人に振る舞っていたことを今でも思い出す(さすがにその態度には問題があり、態度を見直さなくてはならなかったが)。

そして今もなお、ぼくは世界に影響しないという感覚は、自分の中に根強く残っている。単なる思い込みなのは分かっているので、解体しようと思えばできそうなのだが、その思い込みを解いてしまうと、人や世界に対して影響力を「持ちたい」という増長に繋がりそうで、それはなんとなく美学に反するなーという思いもあり、そのままにしている。だからぼくは未だに、色々やりたがる癖に、それが社会や他人に影響を及ぼすとは本気で信じていないという、矛盾の中に生きている。